己の内側から湧き起こってくるものに従って生きる。それが固有のビジネスにつながる。己の外側にある論理に盲従するのではなく、まずは内在的なものを見つめる。これはビジネス構築の正統な道筋である以前に、アントレプレナーの正統な生き様である。「アントレプレナー」とは、生き様を表す言葉ではないだろうか。
2022年6月、生き様を同じくする者のなかから「特別に選ばれし者たち」がモナコに集まった。目的は、「EY ワールド・アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー(以下、WEOY)2022」への出場である。WEOYとは世界で150以上の国と地域に展開するグローバルプロフェッショナルファームであるEY(アーンスト・アンド・ヤング)が主催する、世界ではじめて創設された、グローバルな表彰制度。アントレプレナーの努力と功績を称える表彰制度として、2001年から毎年開催されている大会だ。
この大会には、世界から約60の国と地域を代表するアントレプレナーが集結する。出場権を得るためには、母国の大会でトップにならなければならない。
アントレプレナーの各国代表者が一堂に会した。
心を動かされたときの目の色は世界共通、嘘をつかない
昨年12月、EY Japanが開催する「EY アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー ジャパン」の栄誉に輝いたのが旭酒造の会長、桜井博志だ。
己の内側からマグマのように湧き起こってくる想いを自身の熱源にして仕事に邁進したうえで、そうした想い、志が己の外側に伝わるからこそ、組織も事業も熱を帯びたものになる。アントレプレナーは、熱の伝道師として優れていなければならない。アントレプレナーとは年齢・国籍・宗教といった区分を超えて、熱い想いで世界とつながることのできる人種である。
桜井はWEOYの会場で選考委員に対して、これまでのアントレプレナー人生において自身のなかに湧き起こり続けてきた想いの中枢を語った。
「当然ながら、日本酒がどのようなものであるかの説明をしました。日本のカルチャーにおいて、どのような意味や価値を体現するものであるのか……。そうした文脈において、私が特に伝えたかったのは『手間』という概念です」
「そんな手間などかけていられない」ということで、コスト削減や効率化の美名のもとにどれほどの文化が、言い換えるなら国または地方で固有の伝統や魂が、無残に削ぎ落とされてしまったのだろうか。現代の資本主義において、手間は競争市場で劣後を呼び込むだけのやっかいな存在なのだろうか。
「そうでないのは、すでに獺祭を愛飲していただけている皆様にはおわかりのことと思います。日本酒づくりは、農業と歩みをひとつにするものであり、その膨大な手間は米づくりの段階から始まります。『獺祭』のような純米大吟醸をつくろうと考えると、膨大な時間と労力=手間がかかるものなのです」
しかも、「獺祭」をつくるためにかかる手間は、単にノスタルジックな前例踏襲をひたすら繰り返すことではない。「本当に大切なもののためには伝統に固執しない。変化を恐れない」というのが、アントレプレナー桜井博志のモットーである。20年以上も前から、「優れた杜氏の暗黙知をデータ化して形式知に落とし込む」というデータドリブンな純米大吟醸酒づくりに磨きをかけてきた。同時に、人の手による酒づくりを疎かにせず、同様の製造工程に換算して2.5倍から3倍近くも多くの手作業を加えてきた。
そしていまでは、日本において進化する伝統の象徴が「獺祭」という酒になっている。
「確かに、旭酒造は日本酒における『手間』の内容には変革を加えました。しかし、変わらないのは、すべてがお客様の『ああ、美味しい』のためにあるということです。私たちは、そのひと言にすべてをかけています。自分ではない誰かの幸せのためにかける膨大な時間と労力=手間こそ、日本の文化を根底から支えてきた大切なものなのです」
それは、見事なプレゼンテーションだった。
話をしている間、選考委員の目の色がどんどん変わっていったと桜井自身も手応えを口にした。心に響く言葉は、聞く者の目の色を変える。
そして、もうひとつ。モナコで桜井が響かせたものがある。「獺祭」の香りと味そのものだ。今回、モナコへの旅を果たしたのは桜井だけではなかった。桜井のアントレプレナー人生が醸し出したと表現していい「獺祭」もまた、桜井と共にモナコに渡っていた。
WEOY期間中に開催された、旭酒造主催の『獺祭パーティー』。パーティーの案内は公式プログラムにも組み込まれた。
「今回のWEOY期間中、旭酒造主催の『獺祭パーティー』を開催しました。パーティーの案内は公式プログラムにも組み込まれ、世界から集まったアントレプレナーの皆様に『獺祭』を味わってもらうという特別な会となりました。大変に光栄なことです。現在、『獺祭』は山口県岩国市の山奥にある酒蔵から世界25カ国に輸出しているのですが、モナコに集まっていたのは60を超える国と地域の代表です。当然ながら、まだ日本酒に馴染みがないというアントレプレナーもいらっしゃいました。彼らが杯を傾けてからの一連の表情を見て、これまでに私がしてきたことは間違ってはいなかったと再確認することができたのです」
心に響く酒は、飲む者の目の色を変える。華やかな上立ち香と濃密な含み香、芳醇な味、全体を引き締める程よい酸。これらが渾然一体となり、バランスのよさを感じさせながら喉に滑り下りていった後は、爽やかな後口の切れを見せつつ、余韻が長く続いていく。まずは香りを嗅ぎ、口に含んで飲み込んでからしばらく経つまでの間、「獺祭」をはじめて口にしたアントレプレナーの目の色がどんどん変わっていくのを桜井は見逃さなかった。会場では、現地の日本食レストランとの事前からの入念な打ち合わせを経て、寿司も振る舞われた。その日、会場全体に拡がっていたのは、華やかな笑顔だった。
ジャッジと談笑する桜井氏。左から Girish Jhunjhnuwala (ジャッジ), Susan Chong (ジャッジ),桜井博志、Angela Plaisted(EOY、Global Program Leader), Ms. Rosaleen Blair CBE (ジャッジ)
「美味しいお酒があれば、人はつながることができるのです。昨年の12月に日本代表に選ばれた際には、ここまで来たら、『目指せ世界一』でなければならないのではないかと思っていました。でも、それは少し違っていたのかもしれません。私がずっと想ってきたこと。日本人が大切にしてきたこと。そして、『獺祭』という純米大吟醸酒そのもの。これらを世界にアピールして、世界の目の色が変わる瞬間を見届けることができました。今回の私と獺祭のモナコへの旅は、本当に幸せなものとなりましたね」
世界から集まったアントレプレナーたちの「ああ、美味しい」。このご褒美を得た桜井には今年、大きな挑戦が待ち受けている。今秋には、アメリカのニューヨーク州で建設中の酒蔵が稼働するのだ。
桜井博志と「獺祭」の旅は、まだまだ続く。