日本発の国際的な官民ファンドである公益社団法人グローバルヘルス技術振興基金(GHIT Fund。以下GHIT)がグローバルヘルスの課題解決やSDGsの実現に向けてどのような役割を担い、活動しているのかを、感染症の新薬開発に取り組む専門家との対話を通じて紹介する本連載。第3回目となる今回は、2013年のGHIT設立当初から参画企業に名を連ねている塩野義製薬社長の手代木功氏に、GHITがいかにして新薬開発投資の枠組みを切り拓き、グローバルヘルスに貢献しているかを聞いた。
井本大介(以下、
井本):御社には、GHITの設立当初から評議委員としてご参画いただいています。製薬企業の観点から、なぜグローバルヘルスにおいて低中所得国の顧みられない熱帯病(NTDs)や、マラリア、結核などの治療薬やワクチン、診断薬の研究・開発が重要なのかをお聞かせいただけますか。
手代木功(以下、
手代木):世界の人口は、2050年頃に100億人を超えると予想されています。今の世界の人口は約80億人ですから、およそ20億人増えることになります。そして、人口の増加分はほぼすべて低中所得国の方々です。この方々が世界経済に大きな影響を与えるようになります。
第二次世界大戦後、先進国は地球環境を破壊しながら経済成長を実現してきました。同じようなことを繰り返すわけにはいきません。低中所得国の方々には、地球や人類のためになることに集中しながら経済発展に寄与していただきたい。そのためには衣食住はもちろん、健康にまつわる問題も解決しておく必要があります。そのひとつがNTDsです。
井本:一方で、低中所得国における感染症の治療薬やワクチン、診断薬の開発はハードルが高いとされるのはなぜでしょうか。
手代木:低中所得国での感染症ビジネスは利益を見込むことができません。安全で有効な薬やワクチンの開発には長期にわたる研究開発が求められますし、数多くの症例も必要になります。さらに、どのような薬やワクチンが有効なのかは現地のインフラや医療体制によって変わりますので、いち民間企業では取り組みにくいのが現実です。
しかし、だからと言って「NTDsはやらない」というのはおかしいと私は思います。低中所得国の方々は今まさに困っておられるわけです。企業単独ではペイしないのなら、従来とは異なる開発の枠組みを考えなくてはいけない。ここにGHITの存在価値があると思います。
井本大介 GHIT Fund エクスターナルアフェアーズ&コーポレートディベロップメント ヴァイスプレジデント井本:現地のニーズに合うものを作るためにも、連携して研究・開発に力を注ぐことが重要だと私も思います。40年にわたり日本の製薬業界に携わってこられたなかで、国際的な官民ファンドであるGHITの新規性や革新性をどう捉えておられますか。
手代木:GHITは、低中所得の方々の健康に対してリアルな貢献を行うために、時間をかけて産官学で取り組むための事実上初の仕組みだと思います。
低中所得国にどう貢献するかを考えたとき、日本ではODA(政府開発援助)のように金銭的な支援をすればいいという考え方の人が主流だと感じます。しかし私は、お金ではなくリアルなモノ、つまり製品や材を通じて現地に貢献するべきであり、それでこそ真の貢献だと思います。
GHITは、腰を据えて低中所得国向けの薬やワクチンの研究・開発に取り組むことができるスキームです。設立当初から、すべてのステークホルダーが「短期的な視点だけでは、グローバルヘルスの問題に取り組むことはできない」と認識していたことも重要なポイントでした。
日本の製薬企業が所有している化合物ライブラリーは低分子薬剤の領域に強みを持っています。しかし、このライブラリーを外部の研究機関に拠出/共有する形で製品の研究・開発を実行できる枠組みは、GHIT以前にはありませんでした。
井本:なぜ、以前は製薬企業が会社という枠を越えて協業するのが難しかったのでしょうか。
手代木:日本の製薬業界は、知的財産に基づいて困難な開発を成功させ、一定のビジネスの独占と高い薬価を通じて利益を上げ、そのお金を次の研究開発に投資するというビジネスモデルで発展してきた産業です。企業が持つ化合物ライブラリーは知財で守られているのが当然で、知財をギブアップして新興国に製品を出すなどという枠組みは文化としてありませんでした。
他の先進国では、製薬企業が先進国向けのビジネスモデルと低中所得国向けのビジネスモデルとを分けて考えるのが当たり前になっています。低中所得国には、場合によっては知財を手放してでも手頃な価格で薬剤を提供しようという考え方が浸透していますし、そのための仕組みも企業内に存在します。一方、日本の製薬企業はどの知財をどのような形でギブアップすれば低中所得国の方々に貢献できるかというノウハウがありません。
もうひとつの理由として、そもそも低中所得国のための研究・開発に必然性を感じていなかったことが挙げられます。しかし私は10年ほど前から、当社がグローバル社会で認めていただけるようになったとき、必ずどこかで「国際貢献をしているのか」と問われるタイミングが来ると考えていました。
GHIT設立の際、参画企業として真っ先に名乗りを上げたのはそのためです。この取り組みに参画しておかないと、次の世代の人たちに「あなたたちは自分たちのことしか考えていない」と言われかねない。私が社長をしている間に、できる範囲で国際貢献にも力を注ぐ会社にしたかったのです。
日本はG7の中で唯一、アジアにある国です。日本は長年、自国の経済発展にばかり目を向けてきたと感じています。アジアを代表する国として、薬やワクチンをはじめヘルスケア関連商品の研究・開発を通じてグローバルヘルスに積極的に貢献するべきだと私は思います。
手代木功 塩野義製薬代表取締役社長井本:官民が連携していることもGHITの特徴ですが、この枠組みを実現できた理由をどう捉えておられますか。
手代木:GHITが誕生した2013年前後はちょうど、ODAに対して官の方々が「お金を出すだけが国際貢献ではないのでは」と感じ始めた時期だったと私は理解しています。お金ではなく、製品や材によるリアルな貢献を通じて日本が国際社会に存在感を示すという、次の貢献のフェーズに向かおうという流れと合致していたのではないでしょうか。
私はアメリカ暮らしが長いのですが、昨今、グローバル社会における日本の存在感が急速に薄れていると感じています。私は日本に生まれたことを誇りに思っています。そして、子どもや孫の世代にも誇りに思ってもらえる国にならなくてはいけないと強く思います。
製薬をはじめ、ヘルスケアの分野は日本がグローバル社会で勝負できる数少ない領域です。海外からお越しになる観光客には、お土産としてドラッグストアで日本製の薬を買って帰る方がたくさんおられます。ヘルスケアの分野では、ジャパンブランドは信頼の証として健在なのです。この分野には、日本の存在価値を高め、誇り高き日本をつくる余地が残されています。
井本:GHITでは、取り組みに賛同してくださる企業や団体を増やしていきたいと考えています。そのために必要なことやアドバイスがあればぜひお聞かせください。
手代木:人々の暮らしや生活を守るバリューチェーン全体をヘルスケア領域と捉えて、食品や衛生用品、化学品のセクターも巻き込んでいくのが良いのではないでしょうか。
当社は、2020年6月に策定した中期経営計画で「HaaS」(ヘルスケア・アズ・ア・サービス)という新たな方向性を掲げました。これは、創薬で培った強みを中核に据えながら様々なパートナーと協業し、人々の困りごとを解決するヘルスケアサービスとしての価値提供を目指すというものです。
HaaSは製薬企業1社で実現できるものではありません。例えば、マラリアなら薬やワクチンだけではなく、高品質の蚊帳を供給することが罹患率を防ぐのに役に立ちます。もちろん、安全な食品や衛生用品も人々の健康や暮らしを支えるうえで欠かせません。これらすべてをヘルスケアの領域に含めることで、より多くの企業や団体が参画しやすくなると思います。
いい技術をお持ちのベンチャー企業やスタートアップのなかには、自社単体ではグローバルへの貢献の仕方がわからないという方々がおられます。そうした方にも参画していただきながら、リアルなグローバル貢献を形にしていくのが理想です。
GHITのビジネスモデルは、ヘルスケア以外の領域での課題解決にも生かせるのではないかと私は考えています。幅広い分野において、低中所得国の方々の生活向上に役立つ製品や材を供給する。そして、その国の方々から「日本に助けてもらった」と実感していただく。GHITや、GHITのビジネスモデルにはそれができると期待しています。
てしろぎ・いさお◎塩野義製薬代表取締役社長。塩野義製薬入社後、秘書室長、経営企画部長を経て、2002年、取締役に就任。2004年から常務執行役員・医薬研究開発本部長、および専務執行役員・4本部(研究・開発・製造・営業)管掌を経て、2008年より現職。
いもと・だいすけ◎GHIT Fund エクスターナルアフェアーズ&コーポレートディベロップメント ヴァイスプレジデント。GHIT Fundの渉外・経営企画・広報を統括。2020年より現職。現職就任以前は、2013年イーライリリー社、2017年国際非営利組織DNDi(本部ジュネーヴ)日本事務所の事務局代表。リリー入社以前は、国際協力銀行および国際協力機構にて中東および仏語圏アフリカの国々を中心に開発・国際協力に携わった。東京大学法学部卒、フランスINSEADにてMBA取得。