業界の不況に追い打ちをかけたコロナ禍により、経営が本格的な緊急事態に。さまざまな施策を考案しつつも、根本的なビジネス変革のときと捉えた大上さんは、「ビジネスモデル改革」に乗り出そうとしています。
お悩み「問屋業というビジネスモデルをどう変化させていけばいいの?」
株式会社オオウエは、大阪・天王寺で創業以来73年にわたって和紙・不織布を専門に取り扱う商社、いわゆる問屋業を営んでいます。
メーカーから和紙を仕入れ、食品包装用や寺社仏閣の経本用などの資材を卸す事業が売り上げの90%を占め、ほかに自社製品の直販事業も手がけています。
そんな老舗紙問屋の4代目を継ぐ予定なのが、今回のお悩み人・大上陽平さん(32歳)です。
カリスマ経営者だった祖父に憧れ、アトツギとなるべく大学卒業後は凸版印刷に就職。海外展開を見据えて転職し、インドで投資支援の営業も経験しました。
2年前に胸を張って株式会社オオウエに入社しましたが、そこで初めて家業の危機的状況を知ることに。
さまざまな施策に考えは及んだものの、大上さんは「そもそも問屋業の機能が現代に合っていないのではないか?」と根本的な疑問にたどり着いたのです。
そんなお悩みを聞いたお助け隊は、ビジネスのあり方以前に、大上さんの心の奥底を掘り下げていきます。共有されたエピソードの核となったのは、それぞれが経験してきた「覚悟」でした。
ダメだとわかっていながら続けていることが一番ダメ
お悩みピッチ開始早々、緊張からか思うように資料をモニターに映し出せず焦る大上さんに、すぐ声をかけたのが、同じ大阪を拠点にする株式会社大都の山田“ジャック”岳人さんでした。「まるで、20年前の自分に会っているようだ」と、他人事には思えなかったようです。
山田さん
「業態も状況も、入社したころの大都によく似ています。僕は妻の実家が経営していた大都に28歳で入社し、そこで初めて決算書を見て同じように衝撃を受けました。入社後の5年間は配達のためにずっとトラックに乗っていて、工具業界のことは日本一知っていると自負できるほど勉強しましたが、『先がないな』とも感じていました。赤字が続くなか、いまの大上さんと同じ32歳のとき、廃業シミュレーションをしたんです。すると、これ以上続ければ廃業すらできなくなることがわかりました。思い切って先代に廃業を持ちかけましたが、どうしても会社だけは残してほしいと言われ、そこからはとにかく生き残る道を探したんです」
赤字続きだった工具の卸売業から一転、既存の文化を覆してECでユーザーと直接つながることを選んだ山田さん。実行したのは、「選択と集中」、そして決断でした。
山田さん
「ダメだとわかっていながら続けることが、一番ダメ。僕はECをやると決めた瞬間に、問屋業をすっぱりやめました。儲からないから、当時400~500軒あった卸先を負債だと認め、ホームセンターとの取引も見直しました。厳しいようですが、当時の社員には退職金を払って全員辞めてもらっています。中小企業のリソースは限られているので、何かを『やる』と決めたら、『やらない』ことも決めなければなりません。問屋業の役割は、物流、ファイナンス、情報の3つ。時代に合わないことを一つずつやめていき、次のチャレンジはそこから始めていきました」
ビジネス成功の布石としてよく耳にする「選択と集中」です。ここで大切なのは、大前提として“切り捨てる”のではないという意識で取り組むこと。山田さんはつながりの重要性についてもしっかりと伝えます。
山田さん
「問屋業をゼロにするのに10年。やはり時間はかかりました。それは、お客さんに迷惑をかけられないから。すべての卸先に一つひとつほかの問屋さんを紹介していったんです。ただ、だんだん心が折れていくんですよね。周りの人たちに助けられ、なんとかたどり着けたのだと思います」
「20年前の自分への、すごいアドバイス」と、ファシリテーターを務める齋藤潤一さんが目を見張ります。最後に「仕入れ先は資産。いまの大都も当時から変わっていません」と一言。これには、川越発のビール「COEDO」づくりをしながら全国の農家と共に歩んできた株式会社協同商事 コエドブルワリーの朝霧重治さんも、大きくうなずきました。
朝霧さん
「長年かけて培ってきた仕入先とのリレーションは、我々も本当に大事な資産と考えています。仕入れは当たり前にできると思われていますが、実際はそうではありません。問屋が持つ関係性やノウハウは大きな強みになります。それに、問屋機能もバカにできるものではありません。小型軽量のものなら、荷合わせで物流の新しい価値を生み出すことも考えられます」
続けて手を挙げたのは、大上さんと同じ4代目を継いだ佐藤繊維株式会社の佐藤正樹さん。紡績・ニットのものづくりで山形から世界へと進出する前夜、若き日のアトツギ時代の経験を共有してくれました。
佐藤さん
「当時、山形の繊維産業は大手アパレルメーカー1社との取引に支えられているような時代でした。佐藤繊維も同様に、売り上げの90%はその大手が占めていたのですが、県内で私たちだけがそのビジネスをやめたんです。数万単位の受注製造から、数百枚単位の自社製品販売に切り替えた大きな決断でした。社内からは『冗談じゃない』という声も上がりましたよ。でも、私は量を動かすよりも、付加価値の高いビジネスを選び、5~6年かけて大手との関係を断ちました。ニットの生産は現在ほとんどが海外製です。いま、製造メーカーとして生き残れているのは、あのときに“競争をしないビジネス”に切り替えられたからでしょう」
ファシリテーターの齋藤さんは、「皆さんがどう突き抜けてきたのかがよくわかった」と感心。続けて、羽田未来総合研究所の大西洋さんに、「以前は問屋さんとのお付き合いもあったのでは?」と問うと、百貨店時代の思いを振り返りました。
大西さん
「私が百貨店にいた20年前、すでにアパレルメーカーの存在意義をほとんど感じられなかったにもかかわらず、アパレルに頼り、百貨店は不動産事業へと変わりつつありました。でも、それは許されるものではない。当時はいかにサプライチェーンを効率よく短くできるかが、最終的にお客さまへ最大価値を提供できることだと考えていました」
また、ヒントは大上さんが初めて勤めた企業にもあると、大西さんは話します。
大西さん
「印刷業が下降線をたどった時期、凸版印刷は真っ先にポートフォリオを変えた企業です。その変革を感じた瞬間を振り返ると、課題解決の糸口が見えてくるかもしれません」
和紙にはすでに世界観がある
業界の最前線で感じていた経験談に一同が耳を傾けるなか、続けて大西さんが言葉にしたのは「和紙の可能性」でした。そこから、手にしているものを捨てた先に進むべき道筋が見えてきました。
大西さん
「50年ほど前から、和紙はいろいろなものに活用され、商品開発されてきて、やっとこの数年で多くの形に転化されてきています。ですから、まだまだチャンスはあると思います」
佐藤さん
「すでに完成されている『和紙の世界観』は貴重です。とても日本っぽい。実は、私は特殊な和紙の糸をつくって、海外に輸出しています。ウールは秋冬に強く、春夏の売り出し方がありませんでした。そこで春夏製品にも使えるよう、ウールと和紙を組み合わせて手触りと軽さを追求したものをつくり、海外から高い評価を受けたんです。受け継いだもののなかで、自分のビジネスをどうつくっていくかが大切。私は4代目ですが自分のなかでは創業者です。やはり創業者精神がないと、新しい環境はつくれないし、苦境を乗り越えられません」
地方の中小企業に向けて輸出コンサルタント事業を展開してきたエイグローブ株式会社の小粥おさ美さんから、問屋の強みを生かした「キュレーター」という道も示されました。
小粥さん
「ユーザーがたくさんのメーカーを一つひとつ当たっていくは難しいので、企業としても大上さん個人としても、目利きの立ち位置に立てば生き残る道はあるのかなと思いました。そのうえでユーザー直販を伸ばすなら、海外展開は最適。歴史のある企業ほど国内にはしがらみがあるでしょうし、しばりの少ない海外なら挑戦しやすいのではないでしょうか。海外にはプレスクリプターという、上質な素材を企業などに提案する職種があります。和紙を紙ではなく『素材』と考え、新たな市場を探るのもいいと思います」
山田さん
「最後にもうひとつだけ。そもそも、業界のことを知り尽くしている? それは確実な強みになります。大阪で大都が工具販売を続けているのは、工具メーカーの90%が大阪にあるから。株式会社オオウエがある天王寺区は、一番寺社が多い行政区です。そこでなぜ紙問屋なのか? そうしたストーリーを考えることも、未来につながっていく道になると思います」
各人の経験がリンクし、伝えたいことがあふれ出してきたお助け隊。止まらないアドバイスをいったん制したファシリテーターの齋藤さんが、「まず何から始めようと考えていますか?」と、大上さんに問いかけます。すると、お悩みの裏に隠し、言えずにいたことを口にし始めました。
覚悟不足を痛感! まずは捨てることを真剣に考えたい
大上さんが痛烈に感じたのは、「覚悟の足りなさ」でした。コロナ禍により取引先が大打撃を受け、これ以上、問屋業を続けても意味のないところまできているのはわかっていたといいます。
それでも、「長年の付き合いをゼロにすることが怖くて、見て見ぬふりをしていた」と、大上さん。「まずは捨てることを真剣に考えたい」という覚悟を口にし、その先に海外での販路開拓やキュレーターとして新しい生き方も見据えました。
「痛烈なアドバイスの数々に、自分のなかで糧とするのには時間がかかるかもしれない」と話していた大上さんですが、後日すぐに社内で話し合いの場をもち、事業改革をスタートしたそうです。
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第2回セッションを受けて、お悩みピッチを主催するアメリカン・エキスプレス 須藤靖洋 法人事業部門副社長/ジェネラル・マネージャーは「171年の歴史がある当社も、時代のニーズを察知してさまざまに業態を変えてきました。その間にはたくさん選択と集中、そして決断があります。オンリーワンの価値を考え、実行していくことが、ビジネス発展につながっていくのではないかと思います」と、自社の歴史を振り返りながら、最後の後押しを添えました。
Forbes JAPAN 藤吉雅春編集長からは、「こんなにいい話を聞ける機会はないと思う。他人事には感じられず、私もとても勉強になりました。1年後の大上さんの姿に期待しています」と、ピッチの価値を改めて胸に刻みました。
即座に動きだしたことを見ても、「お悩みピッチに参加する」という大上さんの決断は、正解のひとつを選択したと言えそうです。Forbes JAPANとアメリカン・エキスプレスは経営者同士の助け合いが広がっていくことを心から願い、これからもサポートしていきます。
第2回のお悩みピッチをビジュアル化すると…
【お悩み人】
大上 陽平 氏(オオウエ/4代目アトツギ)
大学卒業後、凸版印刷に入社し、4年半印刷物・企業販促の提案営業を経験。その後インド・ニューデリーにてMBグループで2年間、アジア企業のインド投資支援の営業を行ったのち、オオウエ入社。和紙と不繊布を介して日本のもの包みを手伝いながら、新たな可能性を模索中。
▶︎株式会社オオウエ
【お助け人】
大西 洋 氏(羽田未来総合研究所 代表取締役社長執行役員)
元三越伊勢丹ホールディングスの代表取締役社長。現在は、羽田空港国内線旅客ターミナルの建設・管理運営を担う日本空港ビルデング、およびそのグループ会社・羽田未来総合研究所で羽田空港の活性化を担う。
▶羽田未来総合研究所
佐藤 正樹 氏(佐藤繊維株式会社 代表取締役)
アパレル会社勤務を経て、1992年に佐藤繊維に入社。独自のモヘア糸の開発などの川下戦略を推進し、その品質の高さは世界から注目されるようになる。2005年、4代目として社長就任。
▶︎佐藤繊維株式会社
山田 岳人 氏(株式会社大都 代表取締役)
大学卒業後にリクルートに入社、6年間の人材採用の営業を経て大都に入社。2011年、大都の3代目として代表取締役に就任。一般社団法人日本DIY・ホームセンター協会が認定する「DIYアドバイザー」の資格をもつ。
▶︎株式会社大都
朝霧 重治 氏(株式会社協同商事 コエドブルワリー 代表取締役 兼 CEO)
日本のクラフトビール「COEDO」のファウンダー・CEO。川越産のサツマイモから製造した「紅赤-Beniaka-」や「COEDO」を通じて、武蔵野の農業の魅力を発信している。
▶︎株式会社協同商事 コエドブルワリー
小粥 おさ美 氏(エイグローブ株式会社 取締役会長/創業者)
大手自動車メーカーでの欧州進出プロジェクトに従事後独立し、企業向け翻訳通訳を始める。地方中小企業の海外輸出コンサルに特化したエイグローブ株式会社を2013年に設立し、現在は会長を務める。
▶︎エイグローブ株式会社
【2021年お悩みピッチファシリテーター】
齋藤 潤一 氏(一般財団法人こゆ地域づくり推進機構 代表理事/クリエイティブディレクター)
米国シリコンバレーのIT企業でブランディング・マーケティングディレクターを務めた後、帰国。東日本大震災を機に「ビジネスで地域課題を解決する」を使命に地方の起業家育成を開始。2017年に宮崎県児湯(こゆ)郡新富町役場が観光協会を解散して一般財団法人こゆ地域づくり推進機構を設立し、その代表理事に就任。
▶︎一般財団法人こゆ地域づくり推進機構
「そう、ビジネスには、これがいる。」
アメリカン・エキスプレス