働き方

2026.11.05 09:53

悪しきリーダーシップの横行に悩むなら、「鏡」を見るべき理由

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私たちが指摘し続けているリーダーシップの危機は本物だ。リーダーたちの不適切な行動は事実として存在する。ギャラップ社による2026年の主要機関に対する信頼度調査では、わずか27%にとどまり、5年連続で30%を下回るとともに、50年以上の調査史上最低水準に迫っている。同社の最新の職場データによると、自社の経営層を信頼している従業員は5人に1人にすぎず、エデルマン・トラスト・インスティテュートの調査では、最高経営責任者(CEO)が真実を語っていると信じる一般社員はわずか19%だ。政治指導者は無慈悲な言動を戦略として正当化し、選挙でその報酬を得る。状況がこれ以上悪化することはないと思った矢先、新たな不祥事が発覚し、人々の目が覚めるという期待は、正当化不可能な行為を擁護する大合唱によって打ち砕かれる。「彼は結果を出している」「彼女には選択肢がなかった」「相手側はもっとひどい」「目的は手段を正当化する」といった具合だ。

リーダーシップの危機は、品性(キャラクター)の危機の「下流」にある。そして品性の危機は、私たちが一度も鏡を見ることなく損得を計算することを許してしまう倫理的枠組みの「下流」に存在するのだ。

その倫理的枠組みには名前がある。「結果主義」だ。私たちは行為の道徳性をその結果によって判断する。一般に「目的は手段を正当化する」と言われるものだ。これは、四半期決算、株価、支持率といった数字だけに注目し、自身が選んだ計算式の下であらゆる行為を正当化する事実上のオペレーティングシステム(OS)となっている。悪しきリーダーが支持を集め続けるのは、私たちが品性を一切問わない評価基準で彼らを採点しているからだ。そのような評価基準では、品性の欠如に気づくことは永遠にない。

心地よい嘘

現代における「心地よい嘘」とは、成果が品性を測定するという考え方だ。四半期業績が良ければCEOは優秀であり、支持率が維持されていれば政治家には問題がない。株価が上がっていれば、取締役会はもう少しの間、目を背けることができる。コンサルティング、IR(投資家向け広報)、PR(広報)、政治コミュニケーションといった業界全体が、不健全で有害な行動を「成果」という言葉に言い換える手助けをしている。

このパターンには見覚えがあるはずだ。ウーバーのトラビス・カラニック、ウィーワークのアダム・ニューマン、FTXのサム・バンクマン=フリード。あるいは、ボーイング737 MAXの危険性を警告しようとしたものの、「数字上は問題ない」と片付けられたエンジニアたち。危険信号は何年も前から見えていた。各リーダーの周囲にいた人々は、将来の成果を担保に信用を与え続けた。そして成果が得られなくなったとき、誰もが驚いたふりをしたのだ。

もう驚くふりをするのはやめるべきだ。私たちの多くにとって、「目的は手段を正当化する」という妥協は、時折犯す過ちではなく、普段の思考様式そのものなのだ。そして、その妥協を受け入れるたびに、単に取引を承認しているだけでなく、自分自身がどのような人間になるか、そして周囲にどのような組織を築くかを形成しているのである。

問われなくなった根本的な問い

アリストテレスは「どのような行為が許されるか」ではなく、別の問いを立てた。彼は、選択し続ける行為を通じて「自分がどのような人物になっていくのか」を問うた。彼の教えにおいて、品性とは所有の有無を問うものではなく、習慣の累積的な結果であった。都合の良い成果によって行為を正当化する単純な計算に追われる中で、私たちはより根幹的な問いを見失ってしまっている。「何かに追われて行動している間、私たちはどのような人間になりつつあるのか?」という問いだ。

アラスデア・マッキンタイアは著書『美徳なき時代(After Virtue)』のなかで、私たちが成果について果てしない議論を続けるのは、品性を議論するための共通の語彙を失ってしまったからだと指摘した。2008年の世界金融危機の後、私と同僚たちは金融危機を引き起こしたリーダーシップの失敗を解明すべく「試されるリーダーシップ(Leadership on Trial)」という研究を実施した。そこには明らかに品性の問題が関わっていたが、リーダー自身が品性とは何か、それがどのように育ち、組織にどのように根づくのかを理解していなかった。私たちが開発した「リーダーの品性フレームワーク(Leader Character Framework)」は、人々にその語彙を取り戻させる試みだった。

しかし、語彙を持つだけでは十分ではないことが判明した。過去のForbes記事でも書いたように、品性を明確に捉えることは重要な第一歩だ。しかし、真に試されるのは、強固な品性を備えた人間になれるかどうかだ。

ブルックスの診断

デイヴィッド・ブルックスはこの10年間、この領域についての考察を深めており、近年はその切迫感を強めている。著書『The Road to Character』のなかで、彼は今日広く知られるようになった概念を提示した。「履歴書的美徳」と「追悼的美徳」の対比だ。前者はLinkedInに書くような美徳であり、後者は葬儀で人々が言及するような美徳を指す。また『The Second Mountain』において彼は、達成のみを中心に構成された人生は空虚な自己を生み出し、空虚な自己が集まることで空虚な文化が生み出されると主張した。

ジ・アトランティック誌に掲載された彼の最新のエッセイは、さらに鋭さを増している。彼は「道徳的形成」、すなわち人々(特に若者)に人としてのあり方を教える、ゆっくりとした共同体的な営みの崩壊について書いている。反動的な政治の台頭は、その崩壊の原因ではなく症状であると彼は位置づける。そして人工知能(AI)に関する記事のなかで、思考の多くを機械にアウトソーシングするにつれ、仲間の人間や自分自身について考えることが少なくなる危険性を警告した。

彼だけの意見ではない。ジョナサン・ハイトはスマートフォンやSNSが思春期の品性形成に与えた影響を記録している。アーサー・ブルックスは人生の後半生における意味の問いについて執筆した。ジム・コリンズによる「レベル5のリーダーシップ」研究は、謙虚さと強い意志の結合こそが優良企業CEOの特徴であると指摘した。フレッド・キールによる「品性のリターン(Return on Character)」データでは、品性に優れたCEOは、自己中心的なCEOに比べて総資産利益率(ROA)が約5倍高いことが実証されている。証拠は昔から存在しているのだ。

ブルックスが主張し続け、私もさらに強調したい点は、リーダーシップの問題は「供給側」の問題ではないということだ。それは「需要側」の問題なのだ。私たちは、自分自身の人生ですでに行ってきたトレードオフを映し出す人々を、選出し、雇い、昇進させ、彼らから商品を買い、追従し続けている。なぜ悪しきリーダーが台頭し続けるのかを知りたいのなら、私たちがいったい何を評価し、報いているのかを見るべきだ。

フォロワー(追従者)の役割

私たちはリーダーについて際限なく語り合う。しかし、フォロワー(追従者)について語ることはほとんどない。だが歴史上、暗黒面のリーダー(ダークサイド・リーダー)で、彼らを容認し、後押しし、あるいは賛美するフォロワーなしに生き残った者は一人もいない。ジェフ・ムーアが2008年の学術誌『Business Ethics Quarterly』に書いた記事を読んで以来、頭から離れない一節がある。彼は1944年のイギリスの新聞が、ヒトラーの軍需大臣であったアルベルト・シュペーアについて評した記述を引用している。

「どこから見ても成功した平凡な男。身なりが良く、礼儀正しく、汚職とは無縁で、妻と6人の子供を連れた極めて中産階級的な生活様式を持つ。他のドイツの指導者たちと比べても、特にドイツ的であったりナチス的であったりするものを体現しているわけではない。むしろ彼は、あらゆる交戦国においてますます重要になりつつある類型を象徴している。すなわち、背景を持たない無階級で優秀な若者であり、世で成功を収めるという目的と、技術的・管理的能力という手段しか持ち合わせていない純粋な技術屋(テクニシャン)だ。心理的・精神的な重し(バラスト)の欠如と、現代の恐ろしい技術的・組織的機構をいとも簡単に取り扱う能力こそが、この類型を今日きわめて遠くまで行き着かせる要因である。今や彼らの時代なのだ。ヒトラーやヒムラーを排除することはできても、この特別な個人に何が起ころうとも、シュペーアのような存在は末長く私たちの間に留まり続けるだろう」(483頁)。

筆者は2026年1月に、多大な代償が知られているにもかかわらず暗黒面のリーダーシップが持続する理由について執筆した。ここでその議論をさらに深めたい。暗黒面のリーダーシップが持続するのは、フォロワーがそれに報酬を与えるからだ。株価が上がっているからと危険信号を無視する取締役会はフォロワーである。声を上げることがキャリアを阻害すると考えて黙っている従業員も同様だ。個人的に危険だと見なしている創業者に資金を提供する投資家も、自分の支持する陣営が勝っているからと酷い言動を容認する有権者も、拒絶しているはずの価値観を持つ企業から購入し続ける顧客も、みなフォロワーなのだ。

スタンリー・ミルグラムの服従実験は通常、権力や権威に関する研究として説明される。しかしそれは同時に、フォロワーシップに関する研究でもある。ミルグラムが示したのは、他者が代わりに責任を引き受けてくれると提示された瞬間、普通の人々がいかに迅速に「自分自身が何者であるか」という問いを投げ出してしまうかということだ。白衣を着た実験者が誰かにボタンを押すよう強制したわけではない。「あなたではなく実験者が責任を負う」というストーリーを提供し、ほとんどの人がそれを受け入れたのだ。

私たちは常にそのストーリーを提示されている。上司から、所属する政党から、業界から、アルゴリズムから。そのストーリーを受け入れることは、他人の悪しきリーダーシップの「受動的な被害者」になることを意味しない。それはあなた自身が、その悪しきリーダーシップの「共著者」になることを意味するのだ。

エコーチェンバーは「美徳」のように感じられる

これは文章で書くほど簡単なことではない。机の上の静寂から「フォロワーは鏡を見るべきだ」と書くことと、現代の多くの人々が身を置く情報環境のなかで暮らし、その環境が見せるもの以外の景色を見ることとはまったく別物だ。

エコーチェンバーは通常、情報の問題として説明される。片側の意見しか聞かないため、片側しか知らなくなるというわけだ。だがその捉え方は深刻な過小評価をしている。エコーチェンバーとは「道徳的環境」であり、シャノン・ヴァラーが「AIの鏡」と呼ぶものだ。これは筆者が2025年のForbes記事「なぜ人工知能に品性に基づく判断が必要なのか」で解説した通りである。エコーチェンバーの内側では、自分に同意する人々はまともであり、同意しない人々は危険であるとされる。新たな憤りが生じるたびにその枠組みが補強され、反論はすべて不誠実さの証拠とされる。AIアルゴリズムは、閲覧する情報をフィルタリングするだけでなく、「あなたがどのような人間であるか」をプロデュースし、その人間のままでいることに対して感情的な報酬を与えるのだ。

レオン・フェスティンガーは60年前、信念と事実が衝突したとき、大半の人々は事実のほうを改ざんすることを示した。道徳的部族意識(モラル・トライブ)に関するジョナサン・ハイトの最近の研究はこの点をさらに拡張している。私たちは理性的に思考して自分の立場を決め、それから同意する部族(集団)を探すわけではない。まず部族を見つけ、その後に理性が「確信」という衣服をまとってやってくるのだ。だからこそ、暗黒面のリーダーの追従者たちは、自分が「加担者」であるという自覚をほとんど持たない。彼らは自分自身を「愛国者」や「リアリスト」として認識する。勇気、忠誠心、正義、犠牲といった「美徳の語彙」は、徳倫理学者がその反対と呼ぶような行動によって完全に都合よく乗っ取られてしまう。無慈悲さは「強さ」となり、軽蔑は「明晰さ」となり、見直しを拒む姿勢は「信念」となる。

これが、鏡を手に取ることがこれほどまでに困難である理由だ。非常に多くの人々にとって、鏡は「集合写真」に置き換わってしまっている。そこに映っているのは、省みるべき自分自身ではなく、所属すべき部族であり、その部族は常に自分を好意的に見せてくれる。そのような環境のなかで「自分はどのような人物になりつつあるのか?」と問うことは、ささやかな「亡命」行為に等しい。それは、エコーチェンバーが長年かけてあなたのために築き上げてくれた友人関係、家族の夕食、プロフェッショナルなネットワーク、そして「歴史の正しい側に立っている」という感覚を危険にさらすことを意味する。

大半のフォロワーは、冷笑的なわけではないと筆者は考える。彼らは「確信」しているのだ。そして、検証されることのない確信こそが、悪しきリーダーシップを動かす原燃料なのである。

状況主義という逃げ道

筆者が2026年8月のForbes記事で提起した誠実な反論は、文脈(状況)は私たちが認めようとする以上に重要であるということだ。ウォルター・ミシェルによる古典的研究、およびジョン・ドリスによるその後の哲学的な検証は、多くの性格理論の予測以上に、状況が行動を強力に決定づけることを示している。良い人間を悪いシステムに投入すれば、しばしば悪い行動が生まれる。これは実証された発見であり、筆者も一度も異論を唱えたことはない。

ここから導かれがちな魅力的な結論は、「品性など架空のものであり、状況だけが重要だ」というものだ。しかしその結論は危険である。なぜなら、責めるべき状況が常に存在することになり、リーダーもフォロワーも含むすべての人々が責任を免れてしまうからだ。

正しい結論はその逆である。状況がこれほど強力だからこそ、それに耐えうるほど品性を強く、かつ意図的に育まなければならないのだ。これを比率(分数)として考えてみよう。分子はあなたが築き上げた品性の強さであり、分母は状況が要求する負荷だ。危機、誘惑、群衆の圧力、決算、投票などによって分母が大きくなったとき、分子が小さければ耐えきれなくなる。徳倫理学は状況に対して甘い考えを持っているわけではない。個人の責任をうやむやにすることなく、状況を真剣に受け止める唯一のフレームワークなのかもしれない。

自分がどのような人間になるかを選択する

品性とは、単に「持っている」ものではない。重大な局面で発揮できるよう、日常の何気ない小さな選択のなかで「実践する」ものだ。あらゆる会議、メール、採用、沈黙、購買、投票のすべてが、品性を鍛えるトレーニング(レップ)なのだ。必要な品性を積み上げているか、それとも手持ちの品性を使い果たしているかのどちらかなのである。

この記事が単なる問題提起にとどまらず、実用的なものとなるために試す価値のある3つの実践を挙げる。

あらゆる結果主義の計算を「徳倫理」のフィルターに通す。「これはうまくいくだろうか?」とばかり問うのをやめ、「これによって自分はどのような人間になるのか? 周囲の人々をどのような人間に変えてしまうのか?」と問い始めることだ。その答えによって、決定が大きく変わることがよくある。

自分のフォロワーシップ(従属姿勢)を監査する。自身の沈黙、忠誠心、労働、資金、票によって、誰の行動を補助しているのだろうか? 誰の品性を保証しているのだろうか? 私たちのほとんどは、この監査を真剣に行ったことがなく、その結果を見れば大半の人が不愉快な現実に直面することになるだろう。

「目的は手段を正当化する」という妥協を拒絶する。特に自分と同じ陣営からそれが提示されたときはなおさらだ。これは最も難しい実践だ。他方の部族の貸借対照表にある妥協を見つけるのは簡単だ。品性が試されるのは、自分自身の帳簿の上でそれを見つけられるかどうかである。筆者による一連のForbes記事は、読者が品性を理解して育み、重要な物事にそれを応用できるよう支援することを目指している。

私たちの研究は、品性が評価され、開発され、組織に根づかせることができることを示している。しかし、それはすべて私たち自身から始まる。今いるリーダーが存在するのは、外部の力によって押し付けられたからではない。私たちが一つひとつの損得勘定を通じて彼らを選んだからだ。そして、もし鏡を見る意思があるならば、その選択が実際に行われている場所こそが、その鏡の前なのだ。

(forbes.com 原文)

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