まず、線が既に引かれた空間に安心感がもてる、枠組みがある程度決まったなかで考えることを好むように見える。「見える」というのがポイントで、本当に好むかどうかは別として、ヨーロッパ人は「日本の人は好むだろうと見てしまう」あたりの表現が適当です。
次に、エクセルは数字を扱うのがメイン機能であるため、何でも数字におきかえるのが現実的実践モデルである、という信念が日本人は強いと思われるかもしれません。数字こそが現実であるというのは、あることに対しては正しく、あることに対しては正しくないにもかかわらず、前者に重きをおくある種の精神的弱さ──分かりにくいことは面倒なので分かりやすい方に加担する──を指摘されている可能性があります。
実は、ワードの「はじめに言葉ありき」の裏返しでもあり、言葉の、あるいは考えの痕跡への拘りの低さが数字に引っ張られている。日本語もわかるヨーロッパ人であればこういった姿を何度もみてきたでしょう。ぼく自身のパワーポイント日本文化論もこの点とは共通しており、言葉の連なりをつくらないから安直にキャッチフレーズに流れやすいと考えています。
さて、本連載のテーマであるラグジュアリー論です。
第三者からラグジュアリーと思われる条件設定がエクセルやパワーポイント上でなされることは、まずないでしょう。最初の発想の理想は口頭であり、ノートへの手書きメモです。デジタルでは人の気持ちが出にくい。殊、ラグジュアリーと思われる世界をつくろうとするにあたっては、デジタルでは不十分なのです。
言うまでもなく、人の気持ちには区切りというものがないです。ここに制限を設けるとどうしても歪なものになるか、いわゆる「量産的」なレベルに陥ってしまいます。ただ、パワーポイントやエクセルがビジネスの現場に好まれるのは、この区切りの存在で、気持ちと一線引ける「許し」を得るニュアンスがあるのでしょう。これがラグジュアリーの条件設定を構想する際に足をひっぱります。
したがって、構想段階においては少なくともパワーポイントやエクセルに頼らない。いわんや、AIに相談するのは論外とさえ言えます。
「人間の身体性は大切。そこには心があるから」という台詞はAIが普及する時代への注意点として流通しています。それは、ラグジュアリー構想という次元でも反芻すべき言葉で、その方策としてアプリケーションソフトの選択に目を向ける必要があると考えます。
ラグジュアリー領域はヨーロッパの独壇場であったところに中国やインドも独自の世界を築こうとしています。一方、日本では「神は細部に宿る」と、細かい伝統技術をつなげ、そこに日本独自のラグジュアリー観を表現すべきという論が出やすいです。それが良いとも悪いとも言いませんが、その方向の先にエクセルやパワーポイントをおかない決意は必要でしょう。まず、言葉を自分の口から音にして出してみる、それらを手書きでメモしてみる。あるいはワードに書きとめる。この習慣をつけることです。
前澤さんも詩的な表現を重んじているとよく語っています。実際のツールの選択で気をつけている点はありますか?


