誰もが「サル」であり「カニ」でもある
では、サルは本当に悪者だったのか。半分は悪者ですが、「毎年実をつける木を持とう」とカニに言ったのは、サルでした。木に登れないカニにとって、それができるサルは本来いちばん必要な相手だったはずです。サルがまずかったのは実を採ったことではなく、カニが手間をかけて育てた木の実を独り占めしたこと。そして、懸命に育てた恵みを分かち合おうと訴えた母ガニに、渋柿を投げつけ死なせたことでした。
この物語を脱炭素の世界に置き換えると、問われているのは誰が正しいかより、その取り組みによって生まれた「実りと手間をどう分けるか」です。商品を買うときも、取引先を選ぶときも、表に見える値段や評判だけでなく、柿の木の下で誰が何を受け取っているのかまで気にかけてみる。そこから見えてくるものがあります。
私たちはカニになるときも、サルになるときもあります。例えば生活者として、環境に優しいからと値上げを受け入れたり、使い勝手の悪さを我慢したりするとき、私たちは柿の木を育てるカニの立場にいます。
一方で、値段だけを物差しに商品を選び続けるとき、私たちはサルの立場に立っています。木を育ててきたカニとは、野菜をつくる農家や商品を製造する工場、その部品を手がける中小企業といったつくり手たちのこと。私たちが安さという熟した果実だけを貪れば、手間とコストというしわ寄せは、すべて木の下にいる彼らの元へと落ちていくのです。
少し高くても、つくり手に実りが返ってきそうな商品を選ぶ。例えば直売所で形のふぞろいな野菜を手に取ることもそのひとつです。味は変わらないのに、形が悪いというだけで安く買いたたかれたり、捨てられたりする野菜は少なくありません。買う人がいれば、農家は手間をかけて育てたものを、そのまま収入に変えられます。毎回ではなくても、できる日にできる分だけで十分です。
これが企業間での取引となれば、この選択はより切実なものになります。取引先にCO2排出削減をお願いするなら、測り方を教えるのか、設備の費用を一部もつのか、減らした分を取引価格に反映するのか。どれかひとつでも実を一緒に渡せるかどうかで、同じ要請の受け取られ方は大きく変わります。
私はここ数年、「守りの脱炭素から攻めの脱炭素へ」と言い続けてきました。守りの脱炭素とは、規制や取引先の要請に応えるための、コストとしての脱炭素です。成果はCSRの報告書に控えめに載るだけで、商品の魅力として語られることはほとんどありません。攻めの脱炭素はその逆で、脱炭素を生活者が選びたくなる価値に変え、商品やサービスの魅力として堂々と打ち出していくことを指します。
そう考えるようになったのは、生活者の本音に何度も触れてきたからです。博報堂が26年7月に発表した調査では、「脱炭素という言葉を知っている」人は約9割に上る一方で、実際に「意識して行動に移せている」人は、3割足らずに留まりました。我慢を押しつけられても続かない。けれど、自分がおいしい、素敵だと思って選んだ暮らしが結果として脱炭素になっているなら続けたい。そう話す人は少なくありません。
守りのままでは、脱炭素は手間とコストの押しつけ合いになり、青い柿が木の上から投げつけられるだけです。攻めに転じ、「選ばれる価値」という実をつけられてはじめて、取引先とその成果を分け合えるようになるのです。どちらか一方の都合や数字を守るだけの脱炭素では、木が二度と実をつけなくなってしまう、と私が考えるのはそのためです。


