日本の音楽教育に足りないもの
実はこれは、私が常日頃感じていることでもある。海外の先生は、「日本人はそこが足りない」といって、表現する前に、具体的にどの感情をなぜ聴衆に届けたいのか、その精度を上げることをしつこく求める。作曲家と演奏者の時間を超えた共同作業で作り上げられた感情を、聴衆が共感という形で消費できたときにはじめて、音楽を聴く感動が生まれるからだ。
一般的な「悲しい」とか「嬉しい」といった感情を届けるのではダメで、あの日あの子に振られた時の胸の痛みをこの音にするとこうだ、といったような本当に具体的でビビッドな感情がないと、共感してもらえるほどの表現はなかなかできないものだ。このことには金子さんも深く同意してくださっていた。
「コンクールの順位」への違和感
なぜそうなるのか。それは日本では感情表現より先に、高い技術を習得することにやはり重きを置いてしまうからではないか?
金子さんが違和感を口にしたのは、コンクールの順位の受け取りかたについてだった。
あくまで順位の受け取り方で、コンクールを否定する話ではない。むしろ彼自身、子どもの頃からハンガリーでいくつものコンクールに出場している。
「でも、コンクールの目的が順位とは全然違うところにあったと思います。感覚的には音楽祭みたいな感じだったのです」
普段習っている先生とは違う審査員に聴いてもらい、感想をもらえる。国際コンクールであれば各国から子どもたちが集まってくる。その子ども同士の交流のほうが盛り上がっていた記憶がある、と彼は笑った。
結果が発表されても、それはお祭りの一応の演出でしかない。その日その時の演奏についてだけのことで、人についての評価ではない。だから、優劣がついたという意識は持たずに帰る。そういうお祭りだった。
「人と競うためのものとか、より良い順位を取るための工夫をしようとか、そういう発想はまったくない中で育ってきました」
でもその感覚が揺らいだのは、18歳で大人の国際コンクールに出た時だったという。
たまたまその時、金子さんは1位になった。結果発表のあと、表彰台には2位、3位、そのほかの賞を得た人たちが並んでいる。みんな一緒に育ってきた仲間で面識がある。そしてメディアの取材時間になった。ところが記者たちは、1位以外には目もとめない。
「あえて今日順位をつけるならこういう結果だというだけなのに。音楽は本当は優劣をつけられる分野じゃないのですよ。ことに、今はAIが出てきて、人の力はみんなと違うことをするとか、審査員の考えを超える発想力とか想像力とか表現力とかが大事な時代。だから、その時の順位にはもはや意味はあまりないと思います」
出来はいいのだけれど、審査員の意見が分かれて、良い点がつきにくい表現にこそ、時代が求める人間力があるはずだと言う。
だが、と彼は続けた。
「コンクールで1番を取るように傾向と対策をする音楽教育は、むしろAIと同じことをやれるように頑張る方向性だと思います。点をつけるとなると、技術的にミスがなく、楽譜に書かれていることが一通りできているところから始まるしかないから」


