山川さんは「エフェクチュエーション」していた──
ここに、一つの理論があります。「エフェクチュエーション」です。経営学者サラス・サラスバシーが、突出した成果をあげる起業家たちに聞き取り調査を重ねた末に見出した、思考の共通パターンを指します。日本でこの理論の紹介と研究を続ける神戸大学の吉田満梨さんによれば、壮大な事業計画を描いてから資金を集め、市場を攻略していくという一般的な起業のイメージとは異なり、優れた起業家たちは5つの原則に沿って動いていたといいます。
すなわち、優れた起業家は手元にあるものから出発し、逆算ではなく積み上げで動いている、というのがその骨子です。理論には 1.「手中の鳥」2.「許容可能な損失」3.「クレイジーキルト」4.「レモネード」5.「飛行機のパイロット」という5つの原則があります。
まず1つ目の「手中の鳥と呼ばれる原則」は、自分が誰であり、何を知っていて、誰を知っているかという手元の資源から発想を始めるという考え方です。遠くの理想の市場を先に描き、そこから逆算するのではありません。山川さんにとっての手元の資源は、木桶で仕込む技術と、業務用で培ってきたブレンドの技術でした。
2つ目の「許容可能な損失の原則」は、期待できる利益の大きさではなく、失っても構わない範囲を先に決めてから動き出すという原則です。百枚のラベルも、友人の経営者に勧められて始めたブログも、失敗しても蔵の経営を揺るがすものではありませんでした。
3つ目の「クレイジーキルトの原則」は、あらかじめ計画した相手とではなく、その場その場で出会った相手を巻き込みながらパッチワークのように事業を広げていく姿勢を指します。ブログを読んだ見知らぬ読者も、乳業メーカーの担当者も、プロボノのトヨタの社員でさえも山川さんの商品開発に加わっていきました。
4つ目の「レモネードの原則」は、酸っぱいレモンを手渡されたら、それを嘆くのではなくレモネードに変えてしまうように、不利な状況をそのまま強みに読み替える発想を指します。東海圏以外では馴染みがないため、関東や関西では酷評されたたまりの濃さは専用醤油という形を得て最大の魅力に変わり、こだわりだけで増やしていた大豆仕込みはグルテンフリーの追い風を受けて需要が生産に追いつかないほどの柱に育ち、コロナで沈んだ業務用の穴はOEMという別の柱で埋められました。
そして5つ目の「飛行機のパイロットの原則」は、未来は予測するものではなく、自分の操縦によって形づくれるものだと捉える姿勢です。醤油業界の縮小という大きな流れは、山川さん一人の力で変えられるものではありません。それでも、専用醤油の配合を一つ試し、蔵開放を一回重ね、目の前の相手の反応を一つ受け止めるという地味な繰り返しを、山川さんは止めていません。
中小企業の経営者が新しい事業を考えるとき、まず市場を調べ、需要のありそうな分野に狙いを定めてから動き出すという順番を思い浮かべがちです。しかし山川醸造の歩みは、その順番を逆にしても事業は育つことを示しています。すでに手元にある技術や関係性を棚卸しし、失っても構わない範囲で小さく試し、関わってくれた人の反応から次の一手を決めていきます。自社の足元に、まだ組み替えられていない資源が残っていないか、あらためて確かめてみる価値はありそうです。


