大森:そういうこともやっていたんですね。
八木:はい。当時は、98%の売り上げがそっちでした。だから、時代に合わせて「ものづくり」を変えていました。でも、「手作りで、いいもの」は変わっていない。「いいものを作るということだけは諦めない」ということは、各代がずっと続けてきたことですね。もちろん「いいもの」の定義は少し変わっていきますが、いま振り返ると、しっかり人の手で作ったことが伝わるものがいいものなのかもしれません。
そこから今度は1990年代のバブル崩壊がくる。崩壊とともに、ギフト需要がなくなり、大きなお茶屋さんもお茶が売れなくなる。僕が高校2年生の時、3軒のうちの1軒のお茶屋さんから「取引を止める」という電話がかかってきて、親父がすごい空気感だったのを今でも覚えています。大学生時代、親父からは「跡を継ぐな」ということをずっと言われてきました。
大森:その意味では、花井さんが言っていた「長く続けるためには、その時々の市場で売れるものを売らなければいけない」という趨勢は開化堂さんにもあったということなんですか。
八木:そうですね。(日本を代表する陶芸家の)河井寛次郎さんが「暮らしは仕事、仕事は暮らし」と言っていますが、仕事と暮らしが直結しているわけなんですよ。食べて行けるかどうかということになってくる。一方、食べていくための選ぶ道だけれども、自分たちが持っている矜持として「ここまでは行き、ここ以上は行かない」というのは、祖父にも親父にもあったのではないかと思います。
だから「いいものとはなんだろう」と。いまは恵まれていて、名実ともに「いいもの」を作ればいいのですが、親父の時代の「いいもの」とは、手で数を作ること。僕も大学生時代に手伝っていましたが、職人さんがとにかくすごい。一重の缶を作ろうと思うと、手数を抜くことはできるけど、手は抜けない。逆に技術としては難しかった。ですが、職人が覚えて、早くできるようにして、超えてきたわけです。だから技術的には親父の技術ってすごいですね。
大森:(1)市場カルチャーの芽吹きを取り込む「カルチャー・アダプテーション」の観点でいくと、いいものは何かというのはしっかり見ていたということなんですね。
八木:見ています。大きく舵を切った時に、いいものというラインの端っこにギリギリくっついて、何がなんでも離さないぞという感覚はありました。
大森:そういうことですね。全部舵を切った先に持っていくのではなく。
八木:だから苦しんでいました。楽ではなかったと思います。親父もギリギリ守りながら数をやって、僕らを食べさせてくれた。


