経営・戦略

2026.09.28 11:45

創業150年の老舗企業「開化堂」が大事にする「『ええもん作れよ』文化」の真意とは(前編)

中央が開化堂代表取締役社長の八木隆裕、カルチャーイン・カルチャーアウトを提唱する大森充(左)、花井優太(右)

どのように「市場」と「価値」を変えてきたのか

八木隆裕(以下、八木):開化堂は150年前の創業当初、ブリキ全般を作っていました。それこそ四角い缶とか、保険証を入れる薄っぺらいものをはじめ、茶筒以外にもいろいろなものを作っていました。初代は山本家なのですが、山本家の2代目が「絵描きになりたい」と言って辞める時に、勤めていた八木家の初代に「お前だったらこれを渡していいよ」と開化堂の屋号をもらい、今の地ではじめたと聞いています。

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おっしゃっていただいたように、当初は、流行っていた「文明開化」から名前をとっているような「ベンチャー企業」。2代目、3代目は西日本をメインターゲットにして、祖父の時代になっていきます。祖父は養子なのですが、もともとは化粧品会社の営業をしていたこともあり新しいことをいろいろ始めました。例えば、当時はまだ茶筒屋が数多くあったこともあり、お茶屋さん向けに無料でハンコをこしらえていました。そうすると他に発注せずに、うちに注文がくるだろうと。だから、いまだにハンコがいっぱい残っています。やり手の営業マンだったみたいです(笑)。

祖父の代には第二次世界大戦があり、「鉄を供出しなさい」と言われた時期がありました。祖父は道具の半分は土の中に入れて、供出しなければバレてしまうので半分は供出してとやっていました。戦後は、海外から大量生産の機械製が入ってきて、「機械製がいい、手作りなんて古臭い」という時代に変わり、祖父は苦しみました。機械製にいくべきか、でも予算がないと悩んでいたなかで、丸久小山園さんというお茶屋さんから「お前のところはええもん作っとけ。うちが買うたるさかい」とおっしゃてくれました。丸久小山園さんは今でもお取引がありますが、そこからじわじわと他のお茶屋さんにも「いいものがある」と広まっていったのが祖父の時代でした。

親父の代になると、小さなお茶屋さんが世の中の波に飲み込まれてどんどんとなくなっていき、大量生産に向き合わなくてはならなくなりました。親父は、昔から作っていた、一重の缶に注目しました。いまは二重の茶筒が多いのですが、一重にした缶を大量に価格を抑えて、一定の大きなお茶屋さん3軒を中心に卸すということをしていていました。一重と言えども技術的には二重よりも難しい。それを職人が技術で超えることで価格を抑えました。

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フォーブスジャパン編集部=文 井上陽子=写真

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