食&酒

2026.10.02 10:45

グルメ系SNS投稿は5割以上が案件か 食通が見た『食評価のディープフェイク』

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グルメサイトの点数は「天気予報」「視聴率」程度

では、こうした情報環境の中で、私たちは何を信じればいいのでしょうか。もちろんこれはSNS特有の病理というわけではありません。テレビやラジオ、雑誌、新聞に至るまで、商業メディアが発信する情報は多かれ少なかれスポンサーや市場の力学を通った玉石混交の産物です。まるごと信じるのは危険であり、厳密な意味で情報の客観性や再現性を担保しているものなど、せいぜい査読を経た学術論文くらいのものでしょう。もっともその学術論文の世界ですら、昨今は商業主義に冒された粗悪な査読誌の乱立が問題視されているくらいですから、世の中に絶対に無垢な情報など存在しないのかもしれません。

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それどころか、こと「外食」という領域においては、客観性や再現性を求めること自体がナンセンスというべきでしょう。外食とは本来、あらゆる消費の中でも最も個人の主観が色濃く反映される総合芸術であり私的な体験だからです。

納豆という単純な食材ですら世論は真っ二つに割れます。ましてや料理の味だけでなく、サービスの距離感、空間の心地よさ、客層の醸し出す空気、そして価格に対する納得感までが絡み合うレストランにおいて、誰にとっても正しい評価などあるはずがありません。味覚や嗜好の違いはもちろん、懐具合、その日の気分、酒を飲むか飲まないかといった文脈ひとつで、同じ店で過ごす時間が「至福のひととき」にも「ただの居心地の悪い浪費」にも化けてしまうのです。

グルメサイトの点数は、いわば天気予報や視聴率のようなものだと捉えるのがちょうどいい距離感だと思います。天気予報が当たることもあれば外れることもあり、視聴率が高いからといってその番組が自分にとって面白いとは限りません。自費による覆面調査を貫くミシュランやゴ・エ・ミヨのようなガイドブックには私も信頼を置いていますが、それでも首を傾げたくなる評価に出くわすことはあります。しかしそれは評価機関に瑕疵があるのではなく、「他人の好みと自分の好みは違う」という当たり前の事実に過ぎません。

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だからこそ、誰かの意見を手がかりにするにしても、まずは「参考にしてはならない相手」を冷静に見極めておく必要があります。

まず警戒すべきは、メディアやSNSでよく目にする「芸能人の行きつけ」という触れ込みでしょう。彼らが店を選ぶ基準は、私たちが求める総合的な心地良さとはまるで別の力学に支配されていることが多いからです。過密なスケジュールの合間に融通が利くか、個室への動線や防音性は万全か、そして何よりスタッフや常連客が有名人慣れしていて過剰に騒がず放置してくれるか。彼らにとっての「良い店」とは、何よりもまずプライバシーが守られる安全地帯のことであり、私たちが期待する空間の居心地や費用対効果とはそもそも評価の軸が根本から異なっています。

同じように、食を極めすぎた求道的な達人や業界の権威の言葉も素直に受け取るには危険が伴います。何千軒と食べ歩き、食の歴史や技法を知り尽くした超上級者の中には、「私の好みではないが、現代ガストロノミーの潮流として極めて意義深い」といった悟りの境地で店を語る人が少なくありません。しかしそれはド素人が現代アートの文脈を理解しないまま難解な抽象画の前に立たされるようなもので、日常の豊かな時間を求めている多くの人にとっては何故これが素晴らしいのかさっぱりわからないという戸惑いを生むだけに終わってしまいます。

さらには、予算という制約が最初から存在しない超富裕層の感覚も参考にすべきではありません。一般の生活者が支払う金額に見合った素晴らしい時間と満足が得られるかという切実な等価交換を求めているのに対し、彼らは既に97点に達している料理やサービスを98点に引き上げるためだけに、躊躇なく数十万円を投じることができます。前提となる制約条件が違いすぎる人々のオススメは、私たちが外食に求める現実的な納得感とは最初から次元が違い過ぎるのです。

唯一の羅針盤は自分自身の美意識である

信憑性の薄いネットのバズを捨て、芸能人や権威者の意見を脇に置いたとき、手元に残る基準はたったひとつしかありません。自分自身の美意識です。

そもそもレストランで過ごす時間とは、味覚の抜き打ちテストではありません。皿の上の味わいはもちろんのこと、扉を開けた瞬間の空気感、サービスのリズム、心地よい喧騒、テーブルの設え、そして支払う金額に見合った満ち足りた時間を過ごせたかという納得感。そのすべてが溶け合った総合体験こそが、外食という文化の本質だと私は考えています。

自分がどんな空間に心地よさを覚え、どんなもてなしに心を満たされ、どんな時間に気持ちよく対価を支払うことができるのか。その評価軸を持たないまま他人の採点に頼るから、見ず知らずの誰かの思惑に振り回され期待外れの夜に不満を募らせることになります。

他人の言葉をなぞるのではなく、自らのアンテナを信じて一軒のレストランを選び、予約を入れる。店の佇まいや発信されるメッセージと自分の美意識を照らし合わせ、その主張に身を委ねてみる。もしその見立てが的を射ていたのなら、自らの感性を誇ればいいのです。

仮に思わぬ失望を味わうことになったとしても、決して他人のせいにはできません。「提示されたコンセプトの何を買い被ってしまったのか」と自らの判断プロセスを検証するその苦い経験こそが、次の選択の確度を上げてくれます。効率よく無難な合格点ばかりを掠め取る外食など退屈な消費に過ぎません。期待通りの歓喜も、思いがけない違和感も、全て自分の選択として味わい尽くす。その積み重ねの先にこそ、揺るぎない自分だけの審美眼が立ち現れてくるはずです。

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文=タケマシュラン 編集=石井節子

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