それはたぶん、愛してしまったことへの責任であり「もう聴かないよね?」という目配せである。社会での責任とか、義務とか、最近はそういう言葉ばかり耳に入る。人間社会というのは不思議で、自分が直接犯していない罪に対して責任を取らなければならないことがあるらしい。
業界の責任、性別の責任、環境の責任、歴史的な責任。「原罪」なるものから始まり、長い人類の時間のなかで生まれ、受け継がれてきた罪が、まるで川の下流にたどり着くようにこの時代に滞留している。
あらゆる罪の処理に追われ続ける我々は、自分の足元を見る間もなく未来のことばかり考える。次の世代のために。いつやって来るかもわからない“完全な平和”のために。私たちは自分の私的な人生を生きるいとまがない。他人の責任を一緒に背負っているあいだに、気づいたらヨボヨボになって死んでしまうのではないか。
いったい、罪はいつ許されるのか。責任はいつ果たされるのか。
大抵の人は、そんなゴール見えない道をひたすら走れるほど健脚ではないはずである。今や人類は、まるで一個の巨大生物になろうとしているように思う。私は誰で、どんな経験をしてきて、そこからどんな考えを得たのか、人波に飛び交う言葉のなかにいると、自分の輪郭がぼやけて、広がって、わからなくなっていくような気がする。もって生まれた属性によって受けた小さな傷が「マイクロアグレッション」というラベルに回収され、個人的な人間関係が「連帯」や「シスターフッド」という言葉にもち去られる。人生に起きた良いことも悪いことも、結局は社会の材料として値打ちがあるのかどうかで見られてしまう。もしかしたら自分も、そういう目で自分の生を見ているのかもしれない。
ひとりで生きたい。ひとりで生活をしていくんじゃなくて、一個の生き物として生きたいと思う。
私の悲しみは私だけのもので、私の嫌悪や怒りは、私だけの言葉で表したい。ほかの誰かと同じ声の大きさで語り合い、ときどき一緒に声を上げたり、ぶつかって離れたりするだろう。
致命的に話が合わない人と渋々乾杯をして、そのうち酔っていろんなことがどうでもよくなって、一緒に歌ったりして、明日はまた別の道を行くだろう。私はひとりで、この曲を口ずさみ続けると思う。生まれてしまった歌が、私のなかでまた別の意味をもって生まれ変わるように。やがて読み人知らずになる先まで残るように。
これはもう私のものだ。お前のものなんかじゃないよ。
伊藤亜和(いとう・あわ)◎神奈川県生まれ。note掲載のエッセイ『パパと私』が話題となり、文筆家としての活動を本格化。著書に『存在の耐えられない愛おしさ』『アワヨンベは大丈夫』『モプーはヘンダ』などがある。最新刊『魔女になりたい』が8月27日に発売。


