地方自治体の首長が、それぞれの地域で「一番の誇れるもの」を語るシリーズ企画「Governor's Letter」。今回は、埼玉県狭山市の小谷野剛市長が多様性を持った産業振興のかたちについて熱く語る。東京の都心から約40km。日本三大銘茶に数えられる特産の狭山茶で知られる。二つの工業団地を有し、県下有数の工業都市として発展を遂げてきたまちだ。多様性に富んだ産業を振興する市長の想いとは。


市長からの手紙:前文
首長を目指したあの日、3月11日を忘れない

「私が市長を目指した理由――それは、あの3.11にさかのぼります。東日本大震災の時、私は狭山市議でしたが、一人の日本人として『政治の決断』の重みを感じました。今なお、忘れられない日です」

狭山市のリーダーとして市政を担う小谷野剛は、12年前を思い起こしながら語り始めた。多くの日本人にとって一番長い日となった、あの日のことだ。地震によって寸断されたサプライチェーンの復旧は遅々として進まない。ライフラインも寸断され、支援物資を集めても被災地に届けるのは困難を極める。市議会副議長の小谷野は、市庁舎から望める入間基地を見て「狭山には空からのルートがあった」と膝を打つ。早朝から市長・副市長に直談判し、日が暮れるまで市役所のフロアを巡って市の幹部に熱く語りかけた。

「関東圏内に被災者を受け入れる方法はないか? 航空自衛隊のC-1輸送機が飛べば、避難所をまるごと受け入れることもできるのでは? 仮設住宅ができる数か月後まで、狭山市として何とか被災者の生活を支えていけたら――私は思いを巡らせました。自宅に束の間戻った際、穏やかに眠る子どもたちの顔を見て、決意したんですよ。このままだと『親父は偉そうなことを言ってて、何もやらなかったじゃないか』と言われてしまうんじゃないかと思ってね。

各部長に談判した結果は、好感触でした。市の宿泊施設の5部屋を被災者のために使えるのではないか、という案が出たのです。だけど、狭山市のスケールを考えれば、100人単位の受け入れも可能なはずです。しかも、財政的には予備費でカバーできるかもしれません」

市の幹部らが検討を重ねた中、小谷野の前に出てきた数字は「100」。100人ではない。100世帯の受け入れを狭山市として決断したのである。震災から1週間が経った3月18日、狭山市は民間賃貸住宅を借り上げ、被災者を中長期的に支援することを表明した。市民から集まった支援物資は地区センターに集積し、速やかに活用できる体制を整えた。支援の規模と充実度、そしてスピード。埼玉県内の自治体でも群を抜く支援策が狭山市から発信されたのだ。

「望んでいた受け入れ数の5倍にのぼる数字を見て、目頭が熱くなりました。これが政治の決断なんだ。人々の生活を守り、支えていく。それが政治なんだ――微力ながら、自分の務めを果たすことができた。それは大きな経験になりました。人々の生活を守るため、私たちにできることはまだまだたくさんある――その思いが、私を市長選に向かわせたのです」


トップセールスで企業を誘致し
多様性を持った産業を振興していく


1970年代から80年代にかけて、狭山市は東京郊外のベッドタウンとして人口の急増を見た。しかし、近年は少子高齢化が進む趨勢の中、新規転入者も減少の一途。そのため、市政の重要課題は人口減少に歯止めをかけること。2015年、市長選で初当選を果たした小谷野は、陣頭に立って、地域の活力の源である産業の振興に注力する。

「とにかく動くこと。実行あるのみ。それが私の信条です。市の代名詞として知られる狭山茶など、農産物のブランド化にも注力してきましたが、市政の一丁目一番地に据えるのは産業振興です。EVやヘルスケア、バイオ、カーボンなど、次世代の経済を担うスタートアップをはじめ、多くの企業を誘致しています」

1964年には本田技研工業がHondaブランドで初の四輪車生産の専用工場を狭山市に新設。エンジンからシャーシの製造、完成車の組み立てから検査まで一貫で生産する拠点としてきた。市内には、トランスの製作で知られるタムラ製作所、自動制御関連機器を手がける鷺宮製作所など、創業が戦前まで遡る企業も存在感を発揮している。

「市長に就任してからのことです。関東地域の産業構造の変化を見て、私は慄然としました。1980年代~90年代までは自動車部品、自動車を基軸に民生用電気機器、事務機械から印刷、出版まで多様な業種が関東の製造業を支えていました。また、本田技研など自動車産業が基軸になり、部品や資材を供給する事業者も技術を高めていたのです。しかし、リーマン・ショックや東日本大震災があった2000年代~2010年代のグラフはいびつな姿を見せます。自動車部品・自動車産業のみが突出し、その他の製造業が先細ってしまっている。多様性を持った産業構造をいかにして取り戻すか。その思いが根底にあります」

2019年には伴走型支援で実績を上げているビズモデルに着目し、狭山市ビジネスサポートセンター(Saya-Biz)業務をスタート。市内の中小企業・小規模事業者の課題解決に伴走し、経営基盤の強化を支えようと、民間の人材も垣根なく募った。センター長にはコンサルティングファームから転身した小林美穂を登用している。 その積極的な施策立案の源はどこにあるのか。小谷野は「トップ自ら外に出て、動き回ることですよ」と笑う。就任以来、とにかく現場に出て走り続けてきた。訪問した企業は市長一期目で100社を超える。次世代のパワー半導体材料として注目を集める酸化ガリウムの成膜技術で世界をリードする半導体ベンチャーのノベルクリスタルテクノロジー、高精度の切削加工技術を転用してアウトドアギアの開発に進んだシンワ。小谷野は、狭山で培った技術でグローバルにも打って出るスモールジャイアンツを列挙した。市長のトップセールスで狭山の産業に活力を――熱い想いが小谷野を走らせる。




市長の役割――それは、人々のくらしを守り
穏やかに過ごせるまちをつくっていくこと


小谷野自身、狭山で生まれ、育ってきた。人口減で活気を失っていく商店街を目の当たりにし、事業者の苦悩を親身になって聞く。「産業政策といっても他人事ではなく、自分ごととして取り組んできた」と自負する。

「既存の産業振興は補助金を手厚く出すという手法が多かった。しかし、旧来の手法で動く時代じゃない。私たち自身が伴走して、自分ごととして産業を考えていかなければ。狭山市ならではのビズモデルは、拠点を設けて、担当者が一緒になって走っていく。その施策の集積が、スタートアップをはじめとする産業振興につながっています。

ものづくりの大企業だけじゃなく、クラフト的な手作りの事業を考えて起業し、商店街を活気づける起業家が多く登場しています。女性が立ち上げるスモールビジネスも枚挙にいとまがありません。狭山市は令和3~4年(2021年~22年)に約800人程度の転入増、社会増を達成できました」

多様性を重んじるのは、豊かな環境が強く伸びる経済をつくり、ゆるぎのない生活をつくるものという確信があるからだ。「直近の人口動態を見ても、今後も狭山市はしっかりと労働者を供給できるポテンシャルがあります」と胸を張る小谷野。事業者にとっても魅力的な地域であり続けるために、市民の生活と産業をリンクさせた理想的なサイクルを描く。

「産業振興というビッグワードにすると、実感がなくなってしまう。人の暮らしがかかっているんだ。私は、あくまでその思いを忘れません。事業体を支えるのは、一人ひとりの従業員です。彼ら彼女らが市民として狭山市で暮らし、地域を支えている。私たち自治体の仕事というのは、市民の生活を守り、家族を安心して育てていける環境をつくること。スローガンやかけ声だけじゃなく、数値目標だけでもない。顔が見える市民、一人ひとりが安心して住める環境をつくることが、私たちの責務です」

小谷野がトップセールスで走り、市政の隅々に目を配らせる中、職員たちものびのびと躍動する。小谷野は、2023年2月、狭山市とForbes JAPAN SMALL GIANTSの連携協定の締結に際し、「狭山市をはじめ、すべての自治体の職員たちに最大限の敬意を払いたい」と語った。「人口減や経済対策、危機管理に難題を抱える自治体にあり、志を持って行動するのは職員たちである」。それが小谷野の持論である。

「私たちの市では、不幸にも虐待によって小さな命が失われてしまったことがありました。私も児童虐待の担当部署と対話を重ねる中で、虐待の現場に向き合い、力を振り絞る職員たちの苦悩を知りました。高齢者支援の現場もそうです。職員たちの真摯な努力があって、市民生活や社会が維持されている――このことを私が強く感じる瞬間です」

震災の支援、そして産業政策においても、生活者にあたたかな眼差しを注ぐ。それが小谷野の信条だ。多様性を持った産業でまちを元気にするために、そして持続可能な社会をつくっていくために。生活者の視点を持ちながら、今日も小谷野は狭山市を走る。





<プロフィール>
小谷野剛◎埼玉県狭山市長。1972年埼玉県狭山市生まれ。専修大学法学部を卒業後、参議院議員田村秀昭の公設秘書に。2003年に狭山市議選に初当選し、3期連続で市議を務める。市議会議長を経て、2015年7月に狭山市長選挙に出馬して初当選。現在、2期目を務める。

文=佐々木正孝 写真=近藤誠