マーケティング

2026.05.06 14:48

「マーケティング部門製」の映画を誰が観るのか

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今年のアカデミー賞で司会のコナン・オブライエンは、式典の冒頭でこう言った。「アカデミー賞の司会を務める"最後の人間"になれることを光栄に思います」。その後のモノローグではこう続けた。「Amazon Studiosは今年、ノミネートが1つもなかった……なぜトイレットペーパーを注文するサイトが、もっと多くのオスカーを獲っていないんだ?」

観客は笑った。面白くて、しかも真実で、そして同時に恐ろしい。そんなときに漏れる笑い方で。

ハリウッドがスローモーションで「崩壊」していくことをめぐる実存的不安は、もはや徹底的に記録され尽くしている。ストライキ、統合、不安定なストリーミング・プラットフォームの経済性、空っぽのロサンゼルスのサウンドステージ。配信戦争はストーリーテリングの黄金時代を約束したが、その後に経済環境が変わり、解決策は「より少ない制作を、より安く、よりアルゴリズム向きに」へと傾いた。開発は実質的に、リブートや、どこかで既に実績を証明したIPへと明け渡されてしまった。

そして、そのすべての下で渦巻いているのがAIである。脚本を書ける! その場で映像やスコアを生成できる! ベン・アフレックはAI企業を持っている(Netflixが買収したばかりだ)! さらに、現在のSAG-AFTRAとスタジオの交渉における中心テーマでもある。だから……結論は保留だ。

この空白に入り込んできたのがブランドである。もはや完全には存在しないハリウッドの残光に浴しようとしているのだが、より戦略的には、広告というよりアートに近いと感じられるメディア投資で新規顧客を獲得したいと望んでいる。

100年にわたって、どんな物語が語られるかを決めてきたシステムは、もはや機能していない。そこに、ブランドのための隙間が生まれた。

ハリウッドがもはや大規模に資金を投じないもの、それはリスクである。だが、まさにそれこそがストーリーテリングに力を与える。つまり、人間が「当たるかどうか分からない」ままに、真実の何かをつくろうとする、この特有で還元不可能なリスクだ。

招待状

雑なAIの「過剰な豊富さ」と供給過多の時代に、私はブランドが関与する方法の捉え直しを提案したい。ハリウッドよりも古く、テレビよりも古く、広告そのものよりも古い考え方だ。

マーケターに「パトロン」になることを検討してほしい。高潔だからではない。オーディエンスが、あなたを好きになるからである。

永続的な文化的結びつきを得る代わりに人間の創造性へ資金を投じるという実践は、何世紀にもわたり、永続する芸術を生んできたほぼあらゆる西洋文化に存在してきた。メディチ家のような有力な一族やパトロンは、作曲家や劇作家、画家を支援したことで知られる(ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」やミケランジェロの「ダビデ像」を見よ)。そこに慈善はない。常に同じ賭けだった。ある時代の最良の人間の仕事と結びつくことは、時間の経過とともに、どんな個別取引よりも価値が高くなる、という賭けである。

パトロンはアートを可能にする。自分たちにもオーディエンスにも複利的な価値を生む、より長く、より意味のある関係に投資する。パトロンにとっては、節度こそが戦略となる。

何十年にもわたり、ブランドはストーリーテラーとして真剣に受け止められること、人を動かす作品をつくること、文化の会話を中断するのではなく、その一部になることを夢見てきた。そして彼らにとって好都合なことに、従来は彼らを締め出してきたハリウッドのインフラは、もはや難攻不落ではない。

2026年にブランドが出すべき答えは、コンテンツを増やすことではない。私たちは飽和し、オーディエンスは疲れ切っている。答えは、もっと難しく、もっと興味深いものだ。人間のストーリーテリングの真のパトロンになることである。自分が信じる作品に資金を投じ、それを丸く磨き上げようとする力から守ること。そして、人々が本当に覚えている物語と結びついたブランドは、ブランド自身もまた覚えられるのだと信じることだ。

これは、現代エンターテインメントの歴史において、ブランドにとって最も重要なクリエイティブの好機である。問題は、彼らがその扉をくぐる準備ができているかどうかだ。

柔軟性、審美眼、規律

Digitas NewFrontsは、常にこのための場だった。新しい発想、新しいフロンティア、ブランドが人を動かす作品に資金を投じ、守るための新しい方法である。

最近、業界は1週間にわたるNewFront関連イベントのラインアップを終えた。ここから実行可能な形に絞り込もう。正しくやれるブランドと、大金を投じて誰にも語られない高価なコンテンツをつくるブランドを分けるものが3つあると私は考える。

柔軟性

ブランド・エンターテインメントに入るときの本能は、まず器から始めることだ。シリーズ、映画、ポッドキャスト、ライブ体験。フォーマットから入ると、範囲を定め、予算を組み、マーケティングチームや企画承認者が理解できるため、戦略のように感じられる。しかし、フォーマットは決して最初の意思決定であってはならない。

問うべきはこうだ。十分なリソースと本物の創作の裁量が与えられたとき、「あなたが支援したからこそ存在し得た」何かをつくれるのは誰か。これは、コンセプトが固まる前、作品がまだ生きているうち、開発プロセスが驚きを最適化で削り取ってしまう前に、脚本家や監督、クリエイターと同じ部屋にいることを意味する。そこには、才能へのより長いコミットメント、より大きな自由、そして計画していなかった場所へクリエイティブな人々を追いかける意思が必要になる。

率直に言って、構造的にそれが可能だと想像しにくいマーケティング組織もある。だが、最高の作品はこうした条件下で生まれ、最高の才能がパートナーとしてあなたを真剣に扱うのも、こうした条件の下だけである。

「どんなコンテンツをつくりたいか?」という問いを、「誰に賭けたいか?」に置き換えてみてほしい。これは別の会話であり、後者は別の扉を開く。

審美眼

パトロネージュが求める2つ目のものは、さらに築きにくく、より決定的だ。審美眼である。実際に、個人的で、評判を賭けるほどのそれだ。検証される前に真実の何かを見抜く力。映画監督と向かい合い、「意味のある物語」と、ただ機能するだけ、あるいは自社ブランドで包むと見映えがするだけの物語の違いを感じ取る力である。

大企業の多くがこれに苦しむのは不思議ではない。20年以上にわたり、本能をデータで置き換えてきた結果、何が既にうまくいったかを特定する能力に極めて長けた一方で、自分が議論の中で何を守るのかを知る能力ははるかに弱いマーケター世代が生まれた。ブランドを審美眼に立ち返らせることは、トップから始まる組織的課題であり、「管理する人」ではなく「つくる人」を背景に持つ人々と組むことから始まる。

審美眼は数値化できない。確認するためのデータが1点も存在しないうちに、何が重要かを見抜く力である。

規律

資金を出したものを守ること。

ブランド・エンターテインメントの歴史には、大きな野心で始まりながら、映画のような見た目はあっても魂はない、柔らかくされた作品に終わったプロジェクトがあふれている。そしてオーディエンスが(これらのプロジェクトを支える有料キャンペーンのおかげで)視聴してくれたとしても、それを即座に見抜く。結果として、マーケティング費用の使い方を変えること、オーディエンスに新しい方法で出会うこと、文化に真に参加すること、効率ではなく効果に焦点を当てること、といった明示的な目標は失敗する。

たいていは、個々には合理的な小さな介入の積み重ねである。法務が意見を持つ。役員が初期版を見てコメントする。戦略が「ブランドらしく」なるよう変更を求める。累積効果として、そのプロジェクトに資金を投じる価値を与えていた、具体的で、リスキーで、人間的な核が、物事をコントロールしたいという制度的反射のようなものによって、安全なものへと編集されてしまう。

問題は、オーディエンスが「感動させるためにつくられたもの」と「転換させるためにつくられたもの」の違いに、ほとんど細胞レベルの感度を持っていることだ。私たちはオーディエンスが「賢い」とよく言うが、それ以上だと思う。オーディエンスは身体感覚的に洗練されている。考える前に感じ取ってしまう。そして私は、これこそがブランドにとってより危険だと主張したい。なぜなら、より良い脚本や、より大きな予算でそれを修復することはできないからだ。唯一の防御は、最初から真実のものをつくることである。

守っているのはブランドか、それとも自分の快適さのレベルか。両者は別物である。

今この瞬間にも、何百万人にとって重要になる物語がどこかにある。それには、リソースと審美眼、そして「イエス」と言い切る胆力を持つ誰かが必要だ。それはかつて、ハリウッドの仕事だった。

その領域に踏み込むブランドは、マーケティングで記憶されるのではない。自分たちが何を可能にしたかによって記憶される。

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forbes.com 原文

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