また、かつて穏健派大統領として対米融和路線を掲げ、西側との対話の窓口としてイラン国内で最も力を持っていたハシェミ・ラフサンジャニ師も、体制の障害とみなされると次第に疎外され、2017年に死去した。心臓発作だと発表されたが、急な死をめぐる状況には不審な点が残る。
しかし、こうした冷酷な権力固めでさえ不十分だった。モジタバ師には、イスラム体制において最も重要な要素、すなわち最高指導者にふさわしい聖職者(イスラム法学者)の地位が欠けていた。モジタバ師の法学者としての称号は「ホジャトル・エスラム(イスラムの証)」であり、最上級の「アヤトラ(神のしるし)」ではない。
父ハメネイ師は最高指導者を選出する聖職者88人の「専門家会議」に対し、自身の息子たちを指名しないようはっきりと指示していたとされる。イラン最高安全保障委員会のアリ・ラリジャニ事務局長も、モジタバ師の選出に反対したと報じられている。初代最高指導者ルホラ・ホメイニ師の孫で改革派陣営が支持するハッサン・ホメイニ師は、軍事力に依存しない歴史的正統性を持つ代替案を提示した。
しかし、どれも重視されなかった。革命防衛隊は、憲法・イスラム法学・正統性に基づくあらゆる反対を押し切った。
すべてを説明する、ホメイニ家の類似事例
イランでは、これとそっくりの権力掌握の動きが以前にもあった。しかし、その試みは失敗に終わっている。
1989年にホメイニ師が死去した際、次男アフマド・ホメイニは、今回モジタバ師が成し遂げたのと同じ策略を試みた。血縁というコネを利用して、体系的な権力を継承しようとしたのだ。アフマドは父ホメイニ師の書簡や通信を管理し、父親の名で書簡を送り、軍部の要人と縁を築いた。当時のフランスの外交記録によると、外国の大使らに接触し、父親の死後に権力を掌握するための秘密評議会の設立さえ提案していたという。
アフマド・ホメイニは1995年に急死した。これに先立ち、革命防衛隊と高位聖職者らはアフマドの目論見を阻止していた。アフマドが犯した致命的な過ちは、革命防衛隊に仕えるのではなく、彼らを率いようとした点にある。


