富士通が牽引する量子コンピュータの社会実装がもたらすパラダイムシフトが、近い未来に起ころうとしている。2022年から巻き起こった生成AIムーブメントは、技術革新が想定以上のスピードで社会を変えることを多くの企業に突きつけた。その沿線上で予測される次の急速な社会変革に向け、企業は経営戦略として量子技術をどのように捉え、いまから何を準備すべきなのだろうか。
2022年に登場したChatGPTを契機に、生成AIは瞬く間に社会を席巻している。多くの企業が、その変化のスピードとインパクトを目の当たりにしたはずだ。そうしたなか、次世代技術として注目を集めているのが、量子コンピュータだ。理化学研究所(RIKEN)と富士通が共同で開発したスーパーコンピュータ「富岳」は、スーパーコンピュータ(以下、スパコン)の代名詞ともいえる存在である。富士通は、スパコンで培った計算技術を土台に、いま新たな量子技術への挑戦を世界の研究機関と進めている。
ハードウェア開発では理化学研究所やオランダ・デルフト工科大学、エラー訂正技術では大阪大学、触媒探索などのアプリケーション開発では早稲田大学などといった世界トップレベルの研究機関と緊密に連携し、ハードウェアからソフトウェア、量子アプリケーションまでを一貫して手がけるフルスタックな体制で、量子コンピュータによる社会課題解決の実現に向け、研究開発に取り組んでいる。
ハードウェアでは、256量子ビット超電導量子コンピュータがすでに開発されており、次の段階として1,024量子ビットの超伝導量子コンピュータも2026年度の公開を予定している。さらに2030年には1万物理量子ビット超、250論理量子ビットの実現を計画している。
世界のエグゼクティブは「予測」ではなく「準備」のフェーズへ
フィナンシャル・タイムズのソートリーダーシップ部門であるFT Longitude社と共同で富士通が実施した調査によると、96%のエグゼクティブが、量子コンピュータは自社に利益をもたらすと考えている。さらに量子コンピュータに投資を行っている企業の54%は「(投資の)判断に満足している」と回答している。
積極的に量子コンピュータに投資をしている企業が、既に投資のその価値を実感しているというこの結果について、富士通で量子アプリケーション開発を統括する菊池慎司(以下、菊池)は次のように分析する。
「現実的な社会問題の解決に向けての量子優位性がまだ世界中に十分に示されていないにもかかわらず、半数以上が『投資してよかった』と答えている。これは非常にポジティブなサインです。量子コンピュータが実用化されるかどうかを見極める“予測の段階”はすでに終わりつつあり、今のうちから知見や経験を蓄積しておくことの重要性が、経営層の間で認識されているのではないでしょうか」
しかし同時に、多くの人々が具体的な活用イメージを描ききれていないのが現状だと菊池は指摘する。同調査では、2026年時点で量子コンピュータ戦略について具体的に議論している企業は6割に満たず、多くの企業が明確なユースケースを持てていない実態も浮かび上がった。
FT Longitude社による同調査レポートのなかで、菊池はこの点について次のように述べている。
「量子コンピューティングの実用的なユースケースを見いだすことは、決して簡単なプロセスではありません。技術そのものへの理解に加え、その技術が自社のビジネス課題やプロセスのなかで、どのように価値を生み、どこで機能しているのかを深く理解することが不可欠です」
そのうえで、菊池は企業が直面する現実的な課題について、次のように続ける。
「自社で活用するとなれば、量子技術を理解できる人材の確保が不可欠ですし、適切なパートナーの選定も必要になります。量子コンピューター技術の実用化が見込まれている2030年以降、どの企業が勝者になるのかがまだ見通せない状況では、投資判断に迷うのも当然でしょう」
では、そうした量子技術の進化は企業にどのような影響を与えるのだろうか。
実用化が現実味を帯びるなか、経営層は量子コンピュータを単なる研究テーマとしてではなく、将来の事業基盤を左右する要素として、どこまで経営戦略に組み込む必要があるのだろうか。
菊池に量子技術がビジネスに与える影響とその向き合い方を聞いた。
2030年、量子コンピュータがスパコンを超える日
現状の能力では、依然としてスパコンが優位な領域は多い。しかし、問題の規模が大きくなる一部の領域においては、量子コンピュータのアドバンテージは顕著になると期待されている。
そしてやってくる2030年。
それは決して富士通だけが描いている未来ではなく、世界各国の量子コンピュータ開発ロードマップでも一つの節目として意識されている時期だと菊池は語気を強める。
「生成AIムーブメントのときと同じように、技術が社会に広く浸透してから動き出していては、競争で後れをとる可能性が高いと考えています」
「だからこそ重要になるのが、ハードウェアの完成を待つのではなく、自社の課題を起点に量子アプリケーションの検討や開発に着手しておくことです。
量子コンピュータで自社の課題を解くためには、専用の量子アプリケーションを開発する必要があります。そして、その開発には数年を要することが考えられます。今すぐ量子アプリケーションの研究を始めて、将来の実用的な量子コンピュータでそのアプリケーションを動かす準備を整えておくことで、競合企業に先んじてビジネス課題を解決できるようになるでしょう」
スパコン、量子コンピュータの違い
富士通は、脈々と受け継がれてきたスパコンの歴史を持つ企業である。同社は、スパコンで活用されるCPU(中央処理装置)と、量子コンピュータで活用するQPU(量子処理装置)という2つの技術を併せ持っている。
現在、量子コンピュータへの期待は大きい。しかし、量子コンピュータが完成すれば、すべてのコンピュータが量子コンピュータに置き換わるわけではない。用途や課題に応じて、スパコンと量子コンピュータはそれぞれの得意分野を生かしながら共存していくと、菊池は強調する。
「従来型コンピュータは0か1かで計算します。過去の情報に基づいて解を出すことや、大量のデータを用いたシミュレーションを得意としています。
一方、量子コンピュータは、量子重ね合わせと量子もつれという2つの量子現象を利用することで、0と1、さらにその重ね合わせ状態を同時に扱うことができます。N個の量子ビットがあれば、2のN乗の状態を並列に計算でき、理論上は計算空間が指数関数的に広がります。例えば、スパコン『富岳』の全リソースを用いても、50量子ビット相当が限界とされるほどです」
では、その特性を生かしたとき、量子コンピュータはどのようなビジネス領域で価値を発揮するだろうか。
ビジネスの将来性を変える量子コンピュータ。適した分野は?
世の中には、問題の規模が大きくなると計算時間が指数関数的に増えてしまうような問題が存在し、そのような問題は既存のコンピュータでは現実的な時間内で最適解を導き出すことが難しくなる。一方で、そのような問題においても、量子コンピュータでは計算時間を抑え込める可能性があるのではないかと期待されている。
菊池が「イメージしやすい分野」として挙げるのが材料開発だ。
たとえば自動車の排ガス浄化に使われる触媒は、現在レアメタルへの依存が高く、代替物質の探索はコスト面だけでなく、地政学リスクの観点からも重要なテーマとなっている。量子コンピュータにより、膨大なパターンの分子の結合や反応のパターンを解析することで、新たな触媒の発見につなげられれば、ビジネス優位性や環境問題のみならず、経済安全保障の観点からもその意義は大きいと考えられる。
同様の課題は、医療・創薬や金融の分野にも存在する。 菊池は、金融分野の取り組みとして、みずほ第一フィナンシャルテクノロジーや富士通の欧州拠点と連携し、信用スコアの評価やポートフォリオ最適化の実現につながる量子アルゴリズムの実現に挑戦している例を挙げる。
「資産が100銘柄、200銘柄と増えていくと、スパコンであっても、すべての組み合わせについてリスクやリターンを評価しきることは現実的ではありません。金融機関が量子技術を活用することで、より広範な選択肢を同時に評価し、適切な判断につなげられれば、量子のノウハウを持たない金融機関よりも優位に立てるかもしれません」
「少し意外な応用としては、量子技術がロボット制御等の分野にも活用できるのではないかと考えています。たとえばヒューマノイドのような7つ以上の多関節を持つロボットの複雑な全体最適化計算は、スパコンですら難しいと考えられています。量子コンピュータにおける量子重ね合わせの原理をうまく使って、膨大な選択肢の中から全体最適解を同時に探索することができれば、より的確な制御や効率的な運用を実現できる可能性があります」

重要なのは、量子コンピュータを単独の技術として捉えないことだという。真価を発揮するのは、AIやスパコンと役割を分担し、組み合わせて活用する場合だ。
「量子は万能ではありません。AIやスパコンと連携してこそ、現実の課題に対する有効な解決策が導き出せます。企業に求められているのは、どの領域で量子を活用すべきかを見極め、段階的に実装していく戦略です。
富士通は、ハードウェアからソフトウェア、アプリケーションまでを自社で手がける数少ない企業です。AIやスパコンとの組み合わせを含め、実務に即した活用方法まで、具体的に支援できる体制を整えています」
量子時代の幕開けは迫ってきている
菊池は、5~6年前まで生成AIについて語る人がほとんどいなかったことを引き合いに、技術革新のスピードの速さを強調する。
「私たちは、未来を現在の延長線上として予測するのが困難な、不確実な世界を生きています。そこでは、新たな技術やサービスが次々と生まれ、瞬く間に世界が変わって見える日もやってきます。だからこそ経営層には、その中から本質的な変化を見極める"選球眼"が求められています。量子コンピュータをまだまだ未来の技術と考えていたら、気がついた時には競合他社が量子技術ではるか先を走っていたという状況も十分起こりうると考えます。
企業の経営層が目指すべきは、他者が量子技術を完成させることを待つのではなく、自ら動いて今から学習と実装を重ね、量子時代の先行者利益の獲得を狙うことだと考えます。量子コンピューティングがもたらすパラダイムシフトを捉えられるかどうかが、今後の企業競争力を左右します。準備を始めるなら、まさにいまがその適切なタイミングではないでしょうか」
・富士通
https://global.fujitsu/ja-jp
・富士通の量子コンピュータ
https://global.fujitsu/ja-jp/technology/research/quantum
きくち・しんじ◎1995年名古屋大学電気電子情報工学科卒。名古屋大学大学院工学研究科を経て、北陸先端科学技術大学院大学情報科学研究科・博士(情報科学)。1997年富士通研究所入社.量子コンピュータアプリケーション研究の統括に従事。



