1965年前後、ベトナム戦争が激化し、米国内の公民権運動が拡大すると、NASAの予算は1966年をピーク(59億ドル、実質支出額)に減少し始め、1970年度にはニクソン新政権によって37億5000万ドルまで圧縮される。また、ベトナム戦争がピークダウンした1968年には、米ソ間で核拡散防止条約(NPT)が締結され、翌69年には戦略兵器制限交渉(SALT I)も始まるなど、米ソ間の緊張が緩和しはじめた。となればソ連はもはや脅威ではない。その結果、アポロの後続ミッションに対する巨額投資の正当性が薄れ、人々は「月面探査は終わった」ものとして認識するようになっていった。
月から地球低軌道の時代へ
ソビエトという脅威が去り、予算が目減りしていくなかで、NASAはプロジェクトの選択を迫られた。当時、NASAはアポロ計画を遂行しながら、恒久的な宇宙滞在手段である宇宙ステーションの必要性を確信していた。また、アポロ11号が月に降りた3カ月後には、ステーションに人員物資を輸送するための新たな輸送システムの概念検討も開始していた。つまり「スペースシャトル」の開発構想は、このときすでに始まっていたわけだ。
さらなる予算削減を予見したNASA長官トーマス・ペインは、アポロ13号が打ち上げられる3カ月前の1970年1月、アポロ20号の中止を決定する。20号で使用されるはずだったサターンVロケットの第3段を大幅に改修し、米国初の単モジュール式宇宙ステーション「スカイラブ」に代用するためだ。そして、同年9月には18号と19号の中止も決定される。そこにはニクソンからの圧力と、アポロ13号の事故が影響したと言われている。つまりアポロの後続ミッションは、その成果に対するリスクと予算が見合わないと判断されたのだ。
1972年にアポロ17号が地球に戻ると、翌73年には「スカイラブ」(1号)を地球周回軌道(低軌道)上に打ち上げ、その人員輸送機にはアポロ宇宙船の予備機などを転用した。こうしてNASAは、アポロ計画の資産を存分に活用しつつ、ピーク時の57%まで圧縮された予算を低軌道に注ぎ込んでいった。
その後、1981年にスペースシャトルがデビューすると、1984年にはレーガン大統領が「フリーダム宇宙ステーション計画」を発表した。しかし、予算不足や議会の反対などによって計画は頓挫。一方でソビエトは、1986年から宇宙ステーション「ミール」を運用していたが、1991年にソ連が崩壊すると、その後継機である「ミール2」の建設目途が立たなくなった。その結果、米露は「フリーダム」と「ミール2」を統合することで合意。こうして1998年からは国際宇宙ステーション(ISS)の建設が開始されることになった。


