命と引換えても表現したいか──坂口安吾から受けた衝撃

岩渕:ビジネスの世界にも通じるものがあると感じます。自分のビジョンが見え、かつそれを形にすることは素敵ですが、稀有なことだとも思います。長谷川さんの場合は、何かきっかけがあったのでしょうか。
長谷川:私の言葉ではうまく表現しきれないかもしれないので、(一枚の紙を差し出して)これを印刷してきました。坂口安吾の評論『日本文化私観』の一節です。
“問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自たる手により、不要なる物を取り去り、真に適切に表現されているかどうか、ということだ。”
安吾はこの作品を、太平洋戦争下の1942年に発表しました。戦意高揚のために文化や美を国家的なイデオロギーとして利用する当時の日本の流れに意義を唱え、文化や美は生きるための「必要・必然」から生まれるものだと説きました。
学生の時にこれを読んで、大きな衝撃を受けたんです。自分がしたいのはこういうことだと思いましたし、そうでないと意味がないというか…….。
平岡:特に「汝の生命と引換えにしても、表現せずにはやみがたい(いられない)」という部分には、強く惹きつけられます。長谷川さんの中でそのように表現せずにはいられないのは、どういうところでしょうか。
長谷川:私の場合、先ほどお伝えした風景というのが、自分のいる場所のようなもので、拠り所というか、安心できる場所で、それがないと生きていけない感覚です。そういうレベルでの「必要」ですね。

平岡:すごいですね。そうして作品のコアのほとんどをご自分の中から生み出されている。ひょっとして、最後の1割ぐらいの部分をテクニックや文脈の知識でアジャストするということも、されていないのですか。
長谷川:はい。ただ、感性で描きながらも結構、理性的な面もあって、客観的にその作品が観る人にどう受け取られるかということも、自然と考えているかもしれないです。だけど、描く際には計算していなくて、描き終えてから出てきたものに対して「ここを突っ込まれたら、こう言い返せるな」という分析を、客観的にやっているような気もします。


