彼は、主人公であるシングルファーザーを演じていた。
主人公が「30代」のときのシーンと、「40代」のときのシーン。
同じ人間でも、歩く速度、歩き方、姿勢が重ねた年月の分だけ変わってくる。
脚本には、歩き方の違いまでは書き込めない。だが、彼はその違いを理解して、自らの想像力で、当然のように歩き方を変えた。
そういう芝居を撮っているときこそ、監督冥利に尽きる瞬間だ。
夕方、主人公が仕事で疲れ果て、家に向かうシーンを撮っていたときだ。
その日は朝から、小五になった娘とちょっとしたことでもめて気が重かった。そこに仕事のトラブルが重なり、いっそう足どりは重かった。だが、その帰り道の途中で、主人公は娘の好物をつくることを思いつく……という場面。
セリフはない。手にはブリーフケースと、立ち寄ったスーパーの袋。
思案しながら、とぼとぼ歩いてくる。
ふと何かを思い立ち、立ち止まる。袋をのぞき込む。
すべての食材が揃っているわけじゃなさそうだ。だが、何とかなるだろう。きっと、喜んでくれるであろう娘の顔が脳裏に浮かんだ。
再び歩き出した彼の足取りは、ほんの少しだけ、弾むようだった。
こういう、「語らずして語る」のが、映画における芝居であるべきだと思う。
たとえばここで、「よーし、食材ちょっと足りないけど、どうにかなるだろ。娘の大好きなハンバーグをつくって仲直りだ!」というような〝説明的なセリフ〟をひとり言として言わせる現場もあるかもしれない。
台無しだ。
年齢や心情によって歩き方を始めとする所作が変わるというのは、至極当然のことかもしれない。だが、それを指摘されて変えるのではなく、自分でプランニングして、現場に落とし込めるかどうか。
実力のある人というのは、そういう「想像力」に本当に長けている。
俳優は人を「こうして」見ている
前述したように、いい俳優は、「想像力」が豊かだ。
それは、「いつも人を観察しているから」だと思う。
たとえば、発車ベルが鳴っているホームに、全力で走ってきた人がいるとする。
目の前で電車のドアが閉まったら、その人はどんな表情を見せるだろうか?
けっして「くそっ!」とは言わないだろう。少なくとも私が観察してきた範囲では、「くそっ!」と怒る人はいなかった。
ほとんどの人は恥ずかしそうに、「まあ、別にいいけど」という顔をして、すっとぼけた。まったくそ知らぬ顔をして、「別に乗ろうとしたわけじゃねえし」と言わんばかりにその場を離れる人もいた。
とにかくそこには観察した人にしかわからない、いろいろな表情があるのだ。


