20代前半にトラック運転手からキャリアを始め、脚本売却の賭けに出て成功を掴む
これは、かつて大学を中退した人物としては異例の出世といえる。キャメロンは20代前半にトラック運転手として働いた後、ロジャー・コーマン率いるニュー・ワールド・ピクチャーズで制作アシスタントの職を得た。当時の週給は175ドル(約2万円)だったという。彼にとって初の監督作品となった1981年の『殺人魚フライングキラー』も、報酬面では大きな飛躍にならなかった。制作開始から2週間後、創作上の意見の相違を理由に解雇され、約束されていた1万ドル(約155万円)の報酬のうち、実際に受け取ったのは半額だけだった。
監督を務める条件として、ターミネーターの脚本を“1ドル”で売却
転機が訪れたのは、その3年後だ。『殺人魚フライングキラー』の仕事でローマに滞在中、病に伏していた際に見た高熱の夢から着想を得たという『ターミネーター』(1984)が、キャメロンにとっての大きな突破口となった。自ら監督を務めることを認めてもらう条件として、キャメロンは脚本をプロデューサーのゲイル・アン・ハードに“1ドル”で売却するという、最初の大きな賭けに出た。
この作品は、製作費640万ドル(約9億9200万円)に対して世界で7800万ドル(約120億円)の興行収入を記録し、キャメロン本人と主演のアーノルド・シュワルツェネッガーのキャリアを一気に押し上げるとともに、最終的に累計興収が20億ドル(約3100億円)を超えるシリーズの出発点となった。1985年にゲイル・アン・ハードと結婚したキャメロンは、その後すぐに1986年の『エイリアン2』(製作費約1800万ドル[約27億円]、興収1億3100万ドル[約203億円])と1989年の『アビス』(製作費約7000万ドル[約108億円]、興収9000万ドル[約139億円])を相次いで手がけた。しかし、2人は1989年に離婚した。
巨額の製作費と完璧主義でヒット作を生み、有利な契約を勝ち取る
映画の製作費はいくらかかり、どれほどの興行収入を上げるのか。そうした「金」をめぐる話題は、キャメロンのキャリアを通じて常につきまとってきた。筋金入りの完璧主義者として知られる彼は、「1980年代の自分は嫌なやつだった」と最近になって認めている。予算超過をいとわない制作スタイルも相まって、作品ごとに商業的成功へのプレッシャーは極端に高まった。それでも、ほぼすべてのケースでキャメロンは結果を出してきた。
1991年の『ターミネーター2』は、当時としてはハリウッド史上最も製作費のかかった作品となった。この映画のコストは9000万ドル(約139億円)を超えたが、その一因となったのが、当時まだ黎明期にあったコンピューターグラフィックス技術(CGI)の大胆な導入だった。だが同作は、その年の世界興行収入トップに立ち、累計5億ドル(約775億円)を突破。VHSの販売でも初期の小売価格が99.95ドルという異例の高値にもかかわらず、数百万ドル(数億円)規模の収益を生み出した。
キャメロンはこの作品で600万ドル(約9億3000万円)の報酬を得たことに加え、制作会社ライトストーム・エンターテインメントを通じて、フォックスから5年間で総額5億ドル(約775億円)に上る大型契約を獲得した。この契約は、キャメロン自身が脚本、監督、製作を手がける複数のプロジェクトに資金を提供する内容だった。
製作費超過で再交渉を行い、『トゥルーライズ』を1994年の興収ランキングで第3位に導く
このパートナーシップが真価を問われたのは、1994年の『トゥルーライズ』だった。アーノルド・シュワルツェネッガーとジェイミー・リー・カーティスが主演したこの作品の製作費は、当初報じられていた4000万ドル(約62億円)を大きく超え、スタジオ側が設定していた上限の7000万ドル(約108億円)も突破し、最終的には製作費が1億ドル(約155億円)を超えた史上初の映画になったとみられている。
創作上の主導権を譲る代わりに、キャメロンはフォックスとの契約を再交渉し、自身の取り分からスタジオが投資額を回収できるようにする条件を受け入れた。結果として、この映画も再び予想を上回る成績を収め、世界興行収入は3億7800万ドル(約585億円)に到達。1994年の興収ランキングで第3位となった。
「当初の想定を超えて『トゥルーライズ』に資金を投じたことで、個人的な負担は確かにあった」とキャメロンは当時、エンターテインメント・ウィークリーに語っていた。この発言は、彼のキャリア全体を象徴する一文とも言える。「私にとっては、可能な限り最高の映画を作りたいという思いが、常に勝ってしまう。自分がこうあるべきだと思う水準以下でやることはできない。それができないんだ。呪いのようなものだ。そして、その考え方は、映画のあらゆる工程に関わるすべての人に浸透していく。だから皆が、より良い作品にするために、より多くの費用をかけることになる」。
1997年の『タイタニック』で報酬返上のリスクを負い、世界興行収入約2790億円という歴史的な記録を樹立
こうした創作をめぐる対立は、1997年の『タイタニック』で、大規模な形で繰り返されることになった。沈没する巨大な船を実際に再現するなど、デジタルと実物の両方の特殊効果に巨額の費用が投じられ、製作費が2億ドル(約310億円)を超えて膨らむ中でキャメロンは、自身が監督とプロデューサーとして受け取る予定だった報酬700万ドル(約10億8000万円。当時のフォーブスの報道による)を返上すると申し出た。興行収入に連動して受け取る予定だったバックエンドの取り分も放棄する姿勢を示した。メディアはこぞって「高価な沈みゆく船」といった比喩を持ち出し、スタジオ側は興行の失敗に備えて身構える状況となった。
しかし、『タイタニック』と『アバター』で第1助監督を務めたジョシュ・マクレグレンは「ジムの自信が揺らぐことは1度もなかった」とフォーブスに語った。「彼は、実現可能性の限界ぎりぎりのところで仕事をする。そして、その限界を押し広げていく」。
報酬を返上した代わりに利益の10%を得て、約232億円を手にする
『タイタニック』は最終的に、初回の劇場公開だけで世界興行収入18億ドル(約2790億円)を記録し、当時の史上最高記録を塗り替えた。VHSも5800万本という驚異的な本数を売り上げ、推定8億ドル(約1240億円)の収益をもたらした。キャメロンへの補償措置としてフォックスは、映画の利益の10%を彼に支払うことを認め、キャメロンは約1億5000万ドル(約232億円)を手にしたとされる。
1998年、『タイタニック』は作品賞と監督賞を含む11部門でアカデミー賞を受賞した。その授賞式の壇上で、キャメロンは自身の映画のセリフを引用し、「私は世界の王だ」と叫んだことでも知られている。


