臨床的な知恵も実証研究も、私たちが幸福に執着すればするほど、幸福はつかみどころがなくなるという点で一致している。要するに、心が喜びを測り続ければ、ゆっくりと、だが確実に喜びを見失い始めるということだ。
最悪なのは、私たちの文化的な空気が自由になることをほとんど不可能にしていることだ。私たちは習慣を最適化し、気分を記録している。また、睡眠を追跡し、どうすれば 「もっと良く」なれるかを指南する際限ないアドバイスに耳を傾けている。幸福の追求は産業となり、その過程で重荷となっている。
こうした中、専門誌『Journal of Happiness Studies』に掲載された心理学者オーレ・ホフケンの最近の研究は、私たちに思いがけない救済策を提示している。ホフケンは論文の中で、幸福とは最終的に手に入れるべきものではなく、進化したプロセスだと理解すべきものと説いている。
進化論的な観点からすると、幸福とは実際には、独自の機能を持つさまざまな心の状態の微妙なバランスだと考えられる。つまり、最も幸せな自分とは、常に気分が良い状態ではなく、個人の内面が進化の意図どおりに機能している状態のことなのだ。
幸福とは常に「気分がいい」ことではない
ホフケンが論文に書いているように、幸福とは「特定のポジティブな影響と特定のネガティブな影響の間の特定の好ましいバランス」だ。言い換えると、幸福とは喜びで満たされることでも、苦痛がないことでもない。そうではなく、喜びと悲しみ(およびその他のポジティブな感情とネガティブな感情)の間の、極めて具体的でダイナミックな比率を維持することだ。
この別の視点からのとらえ直しは、私たちの文化が享楽的な満足が絶えずある状態へと変えてしまった感情に深みを取り戻すのに役立つ。しかしそれ以上に、私たちが経験しうるあらゆる種類の幸福、特にある種のネガティブな感情が混ざったときにのみ感じる幸福を強調している。
悲しみは、この幸福の表れのすばらしい例だ。より広い意味でとらえ、つながりを感じつつ悲しむのなら、悲嘆に暮れても幸福になれる。例えば、愛する人を失って悲しむ一方で、その人を懐かしく思い出すこともできる。
ノスタルジア、つまり喪失感を伴う喜びもこのカテゴリーに属する。厳しいプロジェクトをやり遂げたときの満足感も同様で、疲労の中に誇りと安堵を感じる。ホフケンが言うところの「相反する気持ちを持つ状態」は、幸福は気持ちを浄化する必要はなく、統合だけを必要とすることを思い出させてくれる。



