ドラマは、長年支えてくれた夫デニス(ジム・ブロードベント)を8年前に亡くし、80歳をとうに越えた独居のサッチャーの現在から始まる。食料品店でミルクと新聞を買い、おぼつかない足取りでとぼとぼと歩いていく老女の姿。誰もそれがあのサッチャーとは気づかない。家では、認知症の彼女がなぜ一人で外出してしまったのかをめぐり、介護人と警備員が揉めている。
本作はこうした彼女の現在と回想が、交互に描かれるという形式で進んでいく。現在のシーンでは、しばしばサッチャーにしか見えない夫の幻が登場し、彼女とやりとりする。実際はサッチャーの心の呟きである彼との”会話”や、時々訪問してくる娘キャロル(オリヴィア・コールマン)をはじめとした周囲の人々との微妙なずれなどを通して、認知症の老人としてのサッチャーが描かれる。
回想シーンの間も度々こうした現在のサッチャーに戻るため、政治家時代をじっくり見たい鑑賞者にとっては、この形式が作品としての強度を失わせているようにも思えるだろう。マーガレット・サッチャーの伝記映画なら、晩年の彼女にこれほど時間を割くのは不自然だ。
おそらくこの映画は、家庭を持ちながら為政者の道を邁進し国のトップまで上り詰めた女性の、まさに「ワークライフバランス」に関する心残りと自己肯定に揺れる晩年の心理を描き出そうとしたのではないか。家事や子育てにも手を抜かなかったと言われるサッチャーほどの女性であっても、後悔がまったくないとは言えないだろう、しかし一方では「鉄の女」としての誇りも死ぬまで持ち続けただろう‥‥、そんな人間の幅を描くためには、少しボケかかった老年期をベースにするのが相応しいという、脚本の判断だったのかもしれない。
現在のシーンに幻として現れる夫デニスとのやりとりには、大まかに見て二つの傾向がある。一つ目は、未だ夫の遺品を整理できないサッチャー自身の未練だ。彼のジャケットを見立ててやってブラシをかけたり、甲斐甲斐しく送り出したりしているシーンは、「もっと妻らしく振る舞う時間が欲しかった」という後悔の裏返しのように見える。
もう一つは、自分を労ってくれる役回りとしての夫。老いたサッチャーが思い出すかつての首相としての自分を、幻の夫は基本的に肯定し、当時のネガティブな周囲の反応を批判してくれる。それらから、実際に彼女がいかに精神的にデニスに支えられてきたかがうかがわれる。
一方で、家族団欒の場面はほとんど昔のビデオ映像の思い出シーンだけであり、年頃になった娘のキャロルが自分の気持ちに寄り添わない母に傷ついたりもしている。回想の中のデニスも、必ずしもサッチャーのイエスマンではない。だがちょっと奇妙なのは、幻として現れるデニスの方がずっと多弁で存在感があることだ。老いたサッチャーにとって今の自分を慰めるためには、過去の現実よりも心的現実の方が重要になっているということなのだろう。


