「声なき声を聴く」というレッジョ・エミリアのアプローチ
特に1970年代に徐々にそれまでの「知識を一方的に教え込むことが教師の役割である。子どもをどう統制し、知識を伝達するか」ということに囚われがちであった行動主義的な価値観を乗り越えていった教育学の営みがある。その1つの震源地、イタリアのレッジョ・エミリアという町で実践されている保育がNewsweekの記事を通じて「世界でもっとも先進的である」と世界に知られたのは1991年のことである。心理学・教育学・社会学だけでなく、文化人類学や美術、哲学、政治思想を取り入れて、教育を「民主的で関係性のある営み」として再構築した保育が、町の名前でありながらも、もはや教育手法の一つとして通じることになったレッジョ・エミリアである。
保育士の専門性を高らかにうたい、待遇さえも大きく変えることになったレッジョの取り組みの核心にある、「教師の仕事が子どもの声にならない声を聴くことだ」とはどういうことか。それは子どもは一人一人多様でかけがえのない存在であり、それぞれの子どもがその瞬間瞬間で周りの環境と対話して学ぶかどうかを決めているという子ども観をもつことを前提とする。その上で、教師一人一人もその個性を活かしながら、すべての子どもが学べる環境を作る専門家になるという教育である。科目、教師、子ども同士の関係性、そしてその日その日で「同じ教室」は存在しない。教室を1度しか起きないまさに瞬間的な芸術のように捉え、全ての時間、全ての子どもたちが学び続けられる環境を作り続けることを可能にするその専門性を築く第一歩は、子どもの声を聴くことから始まる。
しかし子ども一人一人は声に出して思いを伝えてくれないし、そもそも子ども自身が自覚しているとも限らない。その瞬間に何が起きているのかを子どもの様子や関係性や文脈から常に判断する訓練として教師に必要なのは、ひたすらに子どもの様子を観察し、そこから学んだことを同僚の教師と対話し続けることである。なぜあの瞬間にこの子どもは学べなかったのか、逆にこの子どもがどうあの子どもを支えたのか。教師一人一人がそれぞれの観察に基づき、自分の研究テーマに基づき、そして自分が見ることができなかった子どもの様子を同僚から得ることで、個別の多様な学びを得ていく。つまり子どもと共に学ぶを超え、子どもから学ぶという教師像である。これをひたすらに続けること、具体的には月に1度か2度実施することによりやっと子どもの声なき声を聴くことができる。授業研究を2-3年かけて最低でも30回ほど行うと良いという研究もある。結果として今ここにある状況に合わせて授業と子ども同士の関係性を作り替えていく熟練した教師が育っていく。
それほどまでに教師の仕事は専門的であり、他者の声を聴くということは簡単ではない。その子どもにはその子どもの豊かな世界があり、その中で全員が学べる権利を保障するという人権教育でもあるこの授業研究という営み、それこそが誰一人取り残さない教室を実現するもっとも大きな変化だと信じて、私たちはカンボジアでこのワークショップを自前で運営している学校を始め、様々な学校で提供している。


