アジア公教育改革機構へ繋げていく未来へ
これまで見てきたように、私は1. システムリーダーシップ、2. オーセンティックリーダーシップ・そのためのラディカルセルフケア、3. 最後に人々の声なき声を聴き続ける専門性、それが今自分に見えている公共に資するリーダーシップの要件だと考える。
私自身その1つ1つを様々なメンター、研究者、同僚、カンボジア人の村の人たちと探究し続けてきたこの23年間の旅はとても豊かでとにかく楽しいものであった。私はこの先少なくとも25年ほどかけて、カンボジアの公教育改革にかかわり続けようと考えている。自分にとって自分を育ててくれた国に、少しでも恩返しがしたい。そしてそれくらい時間のかかる営みであるべきだと信じている。
ただ、カンボジアの中に閉じた取り組みで終わらせるつもりはない。というより、カンボジアのことに挑むためにも、少なくともアジア全体の公教育改革のうねりという空間的広がりを盛り上げていく、繋がっていくことが必要だと考えている。その国が持っている公教育のシステムは一つである。その国の中にいるだけではその国の公教育が持つ良さも、病についてもなかなか気づくことすらできない。また26歳のときにカンボジアに移住し、カンボジアの中で大いに癒されて自分と繋がる機会を得ることができた自分がそうであったように、教育の実践者たちも越境することによって癒され、豊かな学びができると信じている。
だからこそ私たちはこれから、アジアで公教育を改革しようとする実践者がつながり合い支え合い、学びあう「アジア公教育改革機構(仮)」というプラットフォーム作りを手がけていきたいと考えている。アジアの中でもしかすると今は孤独にそれぞれの場所で何とか公教育を支えようと頑張っている全ての実践者たち。教師も、校長も、役人も、NPOも研究者も。その一人一人のリーダーシップが「公共に資するリーダーシップ」へと昇華していくとき、アジアの公教育は黄金期を迎えることができると考えている。
「子どもと教師がもっとも大切にされるときがその文明の黄金期である」という言葉を聞いたことがある。誰一人取り残されない教室がどんな場所のどんな環境で、例えどんな病気をもって生まれたとしても提供される、そんな社会を夢見て、今後も公教育改革に挑む旅を続けていきたい。
より興味がある人に向けて
システムリーダーシップについて
ピーター・センゲ、ハル・ハミルトン、ジョン・カニアによるSSIR(Stanford Social Innovation Review)日本語版の記事「システムリーダーシップの夜明け」では、システムリーダーシップを「変化を起こすのではなく、変化が生まれるように導く」能力と定義。「公共に挑むリーダーシップ」では、個人の成長を超えて、システム全体のリーダーシップの総量を高めることが重要であると明言できる。これは、複雑な社会課題に取り組む上で、関係者全体が変化の主体となるような場を創出し、集合的なリーダーシップを育むことが求められるからである。
システムリーダーシップの夜明け:変化を起こすのではなく、変化が生まれるように導く – Stanford Social Innovation Review Japanssir-j.org
オーセンティックリーダーシップについて
自分らしさに立脚したリーダーシップを「オーセンティックリーダーシップ」として提唱したのはハーバード大学のビル・ジョージ教授である。このリーダーシップモデルにおいては「セルフケア」が中核的な要素とされている。これは、トラウマに配慮したリーダーシップや、共感と自己ケアを重視するアプローチを含み、リーダーが自己の内面と向き合い、持続可能な変革を促進するための基盤となる。私はセルフケアをさらに一歩進めた「ラディカルセルフケア」がオーセンティックリーダーシップを追求する上で欠かせない営みだと考えている。
公共空間の時空的広がり、多様性について
「公共」の時間的・空間的・多様性の広がりを包含し続けるには、現場に学び、アカデミックな営みに学び、それぞれの公共の分野の中で専門性を育むことが必要である。それはシステムにいる当事者たちの「声なき声を聴く」ということでもある。
「公的領域を存続させ、それに伴って、世界を、人びとが結集し、互いに結びつく物の共同体に転形するためには、永続性がぜひとも必要である。世界の中に公 的空闘を作ることができるとしても、それを一世代で樹立することはできないし、ただ生存だけを目的として、それを計画することもできない。公的空間は、死すべき人間の一生を超えなくてはならないのである」(ハンナ・アーレント 『人間の条件』、1994年)。
ジョン・デューイの理解によれば、公共は決して単一の価値観でまとまった同質的な集団ではなく、多様で時に対立しうる価値観を持つ人々が共通の問題に対処することで成り立つ存在だとされている。 つまり公共の領域では、自分とは異なる「他者の合理性」を理解し、利害の異なる他者同士が折り合いをつけながら共通善を追求することが不可欠であるとされる。


