大手飲食チェーンを築いた創業者たちの出発点
大手サンドイッチチェーン「ジャージー・マイクス・サブ」の創業者、ピーター・カンクロは、14歳の頃からニュージャージー州ポイントプレザントの町にあるサンドイッチ店でアルバイトをしていた。17歳のとき、その店が売りに出されると、彼は買収を決意した。当時の労働法では18歳未満が調理場に立つことすら認められていなかったが、カンクロは学校を休んでまで資金を出してくれる人を探し回った。最終的に、元フットボールコーチで地元銀行の副頭取だったロッド・スミスを説得し、12万5000ドル(約1825万円)を年利10%で借り受けた。
この賭けは大成功につながり、カンクロは店舗数3000を超える大手チェーンへと成長させた。その後、支配株を投資会社ブラックストーンに約80億ドル(約1.1兆円)で売却した。
ファストカジュアル大手「チポトレ」創業者スティーブ・エルズも同様に、レストラン業界での経験を基盤として事業を築いた。ここでいうファストカジュアルは、ファストフードとフルサービスレストランの中間に位置する飲食業態を指す。
彼は、世界最高レベルの料理大学とされるCulinary Institute of America(カリナリー・インスティテュート・オブ・アメリカ、通称CIA)で料理を学び、高級レストランで副料理長を務めていた。この時、サンフランシスコで出会ったメキシコ風軽食店「タケリア」に刺激を受けて、後のチポトレとなる店のアイデアをつかんだ。1993年、将来の夢であるレストランの開業資金を貯めるため、彼はデンバー大学の近くで小さな店舗を副業として始めた。その副業は今や年間10億個以上のブリトーを提供する3800店舗の巨大チェーンへと成長している。
「パンダ・エクスプレス」の基盤
カンザス州のベイカー大学を卒業したアンドリュー・チャンは、従兄弟の中華料理店を手伝った後、1972年に父と共にカリフォルニア州パサデナで小さなレストラン「パンダ・イン」を開いた。妻のペギーは電気工学の博士号を持ち、3Mで初期の顔認識のプロジェクトに携わっていたが、夜や週末には夫を手伝い、客を迎えていた。
この経験は、2人が1983年にカリフォルニア州グレンデールのショッピングモールのフードコートで立ち上げた「パンダ・エクスプレス」の基盤として活きた。さらに、ペギーのエンジニアとしての経歴は拡大の過程で大きな武器になった。同社は販売・分析ソフトをカスタマイズし、業務を標準化し、5万人を訓練する教育プログラムを導入したのだった。そしてアンドリューが現場で学んだのは別の教訓だった。「売り上げも客もゼロの日があった」と彼は振り返る。その経験が彼に柔軟さを教えた。
「うまくいかないなら変えるべきだ。当初は値引きが嫌いだったが、『薄利多売』という古くからの中国の知恵を理解するようになった。つまり、顧客が十分に価値があると感じる価格を見つけることが目標であり、それが最終的に売り上げを伸ばすのだ」。
創業から40年以上が経った今、パンダ・エクスプレスは2300店舗を展開し、年間売上高は約60億ドル(約8760億円)に達している。
ファストフード店の現場における教訓
もっとも、すべてのビリオネアが初期の苦労を前向きに振り返るわけではない。現在NFLジャクソンビル・ジャガーズのオーナーであるシャヒド・カーンは、16歳のときにわずか500ドル(約7万3000円)を手にパキスタンからイリノイ州シャンペーンに渡った。初期の仕事の1つは小さな個人経営のピザ店での配達だったが、彼はそこを「砂利採石場」と呼んでいる。強く記憶に残っているのは、客からの酷い扱いだった。罵声を浴びせられ、チップも1度ももらえなかったという。「罵倒やののしり、暴言。私はそういうやり方を信じない」と彼は語る。「スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクのように、それで成功した人もいるが、私のやり方ではない」。
ただし、ある1点については全員の意見が一致している。「ファストフードで働いたことがある人なら喜んで雇う」という経営方針だ。「ファストフードの現場は常にスピードが求められる」とベンチャーキャピタリストのスティーブンスは語る。「常に気を張って動き続けなければならないし、時給労働者への理解が深まる。過酷で、立ちっぱなしで、給料は少ないが、そこで粘り強さを学べる。その教訓は一生残るのだ」と彼は語った。


