「己を捨てよ」スズキ鈴木修の経営哲学との出会い
なぜ、スズキ石井代表取締役副社長は演劇に着目したのか?
その背景は、彼がスズキに着任した2020年10月──コロナ禍の真っ只中にまで遡る。
当時スズキ会長だった鈴木修氏から与えられたミッションが、その原点だ。
「鈴木修会長(当時)より、鈴木俊宏社長を中心とした体制にバトンタッチする際に、一番大事なのはスズキが強くなること。俊宏社長をサポートしてほしいと依頼を受けました」
そのとき、さらに鈴木修氏から投げかけられた言葉が、石井氏の心に深く刻まれることになる。
「己を捨てなさい。心を鬼にしなさい。経営判断に感情はいらない。」
同時に、鈴木俊宏社長は、創業100年を超えるスズキの経営哲学を時代に即して進化させることに注力していた。2021年6月、修氏が経営の一線を退いたのを機に、俊宏社長はスズキのマネジメントの核である「社是」と「3つの行動理念(小・少・軽・短・美、三現主義、中小企業型経営)」という独自のオペレーティングシステム(OS)を、変えずにさらに強化しつつ、時代の進化に合わせアップデートしていくことに情熱を注いでいた。
石井氏は、修氏と俊宏氏から託された役割をこう受け止めたという。
「スズキにおける私の役割は、経営者になることではなく、経営者=社長を支えることだ」
しかし、着任後の道のりは平坦ではなかった。コロナ禍後の半導体不足、DX推進、AI導入など、次々と難題が押し寄せる。
「結婚式と葬式、盆と正月が一緒に来たような気分だった」
当時の状況をそう振り返る石井氏。そして、トヨタからの転籍という経歴が、スズキの中で一定の警戒を呼んだことも隠さない。
「スパイのように見られていました。外から来た人間なので、ある意味当然ですけれど」と、苦笑まじりに語る。

自分を消し、役に徹することで組織に風が通る。
孤独と不確実性の中で、「自分の役割」を果たし続けなければならなかった石井氏。そんなとき出会ったのが、SPAC(静岡県舞台芸術センター)芸術総監督の宮城聰氏だった。
宮城氏の演出哲学には、「役割を演じきるということは、自我を捨てること」という核心がある。その言葉は、かつて鈴木修相談役から受けた「経営判断に感情はいらない」という教えと、石井氏の中で重なった。
自分を消し、役に徹することで組織に風が通る。
石井氏は、演劇の思想と経営の現場が深く響き合うことに気づく。
「人間はミラーボールのような存在です。無数の面を持ち、何が映るかは相手次第。
その内側には、実は“何もない”。“自分”とは、他者との関係性の総和に過ぎないんです」
宮城氏はそう語る。
優れた俳優とは、自らを開き、場の空気や相手の気配、観客のエネルギーを繊細に“受信できる人”だという。
「いまの社会は“発信力”に偏りすぎています。SNSでどう伝えるか、プレゼンでどう魅せるかをきにする方が多い。でも、演劇の現場ではまず“受信力”を鍛えるんです」
この受信力を鍛える演劇の訓練をスズキの役員研修で行ったという。


