バイタリティある人たちに圧倒された90年代
90年代前半は「インターネット」と言ってもまだピンと来る人はいませんでした。だからインターネットの説明をしても「誰の持ち物なんだ?」と、今では考えられないような答えが大人から返ってくることもしばしばでした。
日本で「ニュースサイト」を作った草分けと言ってもいい人物も最初はそうでした。島桂次さん。NHKの会長を務めた方ですが、島さんにMTV.comのサイトからダウンロードしたビデオを見せて「これがインターネットなんですよ」と説明したら、「で、誰のネットワークなんだ?」「マードック(の会社)か?」って。ネットとは誰のものでもない、ということが常識になる前の時代のことです。ですが、島さんはCNNに対抗できるようなグローバルニュースネットワークを日本発で立ち上げようと、衛星放送の拡充なんかにも力を入れていた人で先見性がある人だった。僕もいいアイデアだと思っていたんですが、スキャンダルで辞任に追い込まれてしまいます。
するとそれまで近くにいた人が、スーッと島さんから離れていく。冷たいものだなと思いましたよ。頼れる相手も少なくなった島さんは、僕のようなものにもよく電話をかけてきました。
ただ「追放」された島さんは、落ち込んでいるだけではなかった。「教えてくれたインターネットで、ニュースサイトは作れるか」と相談があり、僕の会社がサポートする形でお手伝いに入ったのです。島さんの言葉を借りて言えば「毎週日曜日に更新される、英語と日本語で読めるインターネット上の『電子週刊誌』」。ローンチしたのは1994年10月3日のことです。
島さんはそのとき、もう70歳近かったはずで、当時の僕とは40歳以上の歳の差があったはず。あのバイタリティには頭が下がりましたね。島さんに紹介された角川春樹さんのパワーを思い出します。打ち合わせ中に突然バタッと床に倒れて「今、地震を止めた」とか、「ゆうべ、小天狗がやってきてさ、飲め飲めって大変だったんだよ」って真顔で言うとか。ああ、クリエイティブな人って、ぶっちぎりでヘンなんだなって角川さんには妙に納得させられましたけど、島さんにせよ、角川さんにせよ、それから23歳のときに出会ったサイバー・パンクのレジェンド、ティモシー・リアリーにせよ、こういう精力的な人は世の中に必要なんだなって。圧倒されることって大事です。これも20代で学んだことの一つですよね。
シカゴでクラブDJに没頭
孫さんや島さんから学べたことって、大学ではとても得ることのできない経験知です。僕はアメリカのタフツ大学をちょうど20歳で中退して、そのあと東京に1年戻って、今度はシカゴ大学に入り直すんですが、シカゴの物理学科も途中で辞めちゃうんです。それは計算の仕方や公式を暗記させる勉強が多かったから。自然科学の美しさに興味をもっていて、直観的に理解した世界を数式で表現する方法に憧れを持っていたのだけど、「正しい答えだけを出しなさい」という教育にはついていけなかった。
たとえばアルゴリズムの実践を学ぶ講義でも、並んでいる数字の性質から「これはクイックソートで処理したほうがいい」と思って解を出しても、「今教えているのはバブルソートの方法だから、ダメ」って言われるような、自分にとってはとても意味を感じられない時間が多かった。
それで、クラブのDJにハマっていくわけです。中学校のときに学校でダンスパーティを主催したりして、昔からDJに興味があって、最初はライムライトというクラブで、シカゴのスマートバーというお店で長いことDJをやっていました。クラブの店内はまさに多様性にあふれていて、警察からマフィアからドラッグディーラーまで、スキンヘッドもいればゴシックもいる。それから家を失った人もいれば、エイズの人もいる。しかしお互いを排除しない。特にDJブースからは全体が見渡せたので、警察が手を出せないマフィアは店のボディガードが追い出しに行くとか、社会の現実というか、世の中とはこういうふうに回っている、ということがよくわかった。これは得難い社会勉強になりましたし、多様性が担保される環境というものを考えるきっかけにもなりました。


