路面電車で訪ねるレトロフューチャーの旅
筆者は以前、「<引き揚げ>世代最後の親睦会<安東会>と東京で味わう現代満洲料理」というコラムで、昭和20年8月15日の日本の敗戦を満洲の北朝鮮国境に位置する鴨緑江沿いの町である安東で迎え、翌21年5月に始まった集団帰国をするまでの期間、この町で抑留生活を送っていた人たちの親睦会について書いたことがある。
ところが最近、木村遼次さんという1908年(明治41年)大連生まれの人物が著した『大連物語』(1972年、謙光社刊)という本を読んで、同じ満洲在住者でも、敗戦後の境遇というのは抑留地によってずいぶん異なることをあらためて知った。
木村さんは、著書によると、戦前は大連ヤマトホテルに勤務していて、ピアノ奏者や大連交響楽団常任指揮者を歴任した。戦後も大連でソ連統治軍関係者やその後に乗り込んできた中国共産党の要請で、現地の音楽文化の育成ために尽力し、1954(昭和29)年まで留用されたという稀有なる人物だ。引き揚げ後は、東京の新宿で「グリンカ」という喫茶店を経営されていた。
木村さんにとっては大連が生まれ故郷で、もし許されるなら大連でずっと暮らしたかったのかもしれない。そして、著書で繰り返し述べているのは、1905年(明治38年)から日本の統治下にあった大連は、ほとんど唯一の絵に描いたような日本の植民都市で、そこに暮らしていた日本人の多くは、日本国内(当時は内地と呼ばれた)では体験できないような恵まれた日々を謳歌していたことだ。
これは安東会のコラムで触れた満鉄会の最後の専務理事で『満鉄を知るための十二章』(2009年、吉川弘文館刊)という著書もある天野博之さんが話していたことだが、「戦前の大連はトイレの水洗化など都市インフラは東京よりもはるかに進んでいて、日本がこの水準に追いついたのは、昭和50年代くらいではないか」というほどの先進的な都市環境だったのだ。
先ごろ、7年ぶりにリニューアルされ、刊行された『地球の歩き方 大連 瀋陽 ハルビン』(学研刊)では、中国東北地方のグルメの紹介とともに、「路面電車で訪ねる古くて新しい大連レトロフューチャーの旅」という特集を企画している。
内容は、1937年製造のデザインを踏襲した大連のレトロな路面電車に乗って、日本人が住んでいた旧家屋などがいまも残る街を散策するというものだ。ここ数年、市内にいくつかあった古い街区が再開発され、洗練された観光スポットに生まれ変わっており、この街にはまさに過去と近未来が交錯する景観が広がっている。
日本の近隣諸国には、大連をはじめとして、ひと言では語りつくせない、いまに繋がる過去の記憶が残る場所がある。そこにはまぎれもなく、多くの日本人が住んでいたのだが、もうその記憶も忘れ去られようとしている。その1つである大連は、成田から3時間ほどの距離にある。多くの日本人に訪ねてもらいたい街である。


