大連はフォトジェニックな街
東は黄海、西は渤海に面した大連は、遼東半島南端に位置する美しい港町だ。もともと小さな漁村にすぎなかったが、20世紀初頭に帝政ロシアが近代港湾都市として建設を開始し、その後、日本が開発を引き継いだ歴史がある。1945年(昭和20年)の第二次大戦の敗戦前後には約20万人の日本人が住んでいた。
そんな大連のいまの魅力は、フォトジェニックな街であることだ。
帝政ロシアは1898年に大連を租借地としたが、植民者たちがこの地に持ち込んだのは、19世紀半ばに着手されたパリの都市改造の手法だった。すなわち凱旋門が建つエトワール広場(現シャルル・ド・ゴール広場)から並木を配した街路(アベニュー)を放射状に延ばすという設計をそのまま採用したのだ。
円形広場と街路が連結し、都市全体が拡がっていくようなスケール感とパースペクティブを持ったこのようなドラマチックな街づくりが実現されたのは、日本を含めアジア広しといえども、この大連くらいではないだろうか。
前述したように、日露戦争(1904年~1905年)後、大連の建設は日本に引き継がれ、都市の顔であった当時「大広場(現中山広場)」と呼ばれた円形広場の周囲には約10棟の特徴ある西洋建築が建てられた。大連ヤマトホテルや横浜正金銀行、大連市警察署、大連市庁舎などで、そのほとんどが現存している。
筆者が初めて大連を訪ねたのは1980年代半ばだが、その頃、日本統治時代の街並みはほぼ残っていた。現在のような高層ビル群はなく、車もほとんど走っていなかった。むしろ文化大革命などの長い混乱期を経て、すっかりくたびれ果てた風情ではあったが、当時の大連は北欧のすがすがしい港町のようで、中山広場に立つと潮風を肌に感じた。街を歩くことそれ自体が楽しかったことを思い出す。
このように大連は、港町という地理的環境のみならず、歴史と沿革という観点からみても、特殊な都市だといえる。なぜなら、1905年から1945年までの40年間、日本の植民地であり続けた中国で唯一の場所だからでもある。
そんな大連を象徴する街並みとともに、旅行者にとって魅力的なのが、市内を走るレトロな路面電車だろう。驚くべきことに、1937年(昭和12年)製造の日本統治時代のデザインを踏襲した車両がいまでも走っている。
もちろん、当時の車両が現役でそのまま走っているわけではないが、大連の関係者に聞くと、「昔の日本製造車両を数十年間、絶えず更新しながら、また旧式を真似て設計し、製造したもの」だという。おそらく車両本体そのものはそのまま使い、モーターや台車などの足回りを新しくして走らせているのだと思う。


