カルチャー

2025.08.02 10:45

映画『よみがえる声』、他者を批判せず、淡々と自らの体験を語る人々

2月の座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルで登壇した朴麻衣さん(左)と朴壽南さん(右)

2月の座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルで登壇した朴麻衣さん(左)と朴壽南さん(右)

在日朝鮮人2世の映画作家・朴壽南(パク・スナム)氏が娘の麻衣氏と共同で監督した⻑編ドキュメンタリー映画『よみがえる声』(日韓合作)が2日からポレポレ東中野(東京都中野区)などで全国順次公開されている。広島と長崎に投下された原爆の被爆者、沖縄戦の被害者、元徴用工など、先の大戦で辛酸をなめた朝鮮人たちの証言が淡々と続く。

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朴壽南氏は今年3月で90歳になった。約40年前から撮り続けて来た16ミリフィルムを整理し、復元・デジタル化して、戦後80年を迎える今月の上映に間に合わせた。朴麻衣氏によれば、1本あたり11分のフィルムが約300本あり、総撮影時間は計約50時間に及んだ。カメラマンや録音スタッフの記録、証言者の発言メモなど膨大な資料を整理し直し、「パズルのピースを当てはめるような作業」(朴麻衣氏)をこなしたという。

「被爆した事実がわかり、嫁ぎ先から追い出された」と語る女性、「炭鉱で同僚が死亡したのに、日本人から、石炭を全部採掘し終えた後に収容しろと言われた。国が亡びるとこうなるのかと同僚と話し合った」と話す元徴用工の男性。証言者たちは自分が経験したことを語るが、怒りや悲しみの表情を見せるわけでもなく、日本を激しく非難することもほとんどない。

証言者たちは、ほぼ全員が亡くなっている。朴壽南氏は「復元・デジタル化は、ただ昔の映像をコピーする作業ではありませんでした。亡くなった方たちに命を吹き込み、息遣いも含めて再現したいという思いを込めました」と語る。戦後80年ともなれば、戦争を知らない世代が圧倒的に多くなる。戦争に対する見方も変わる。朴壽南氏は「それでも、証言者の皆さんはフィルムのなかで生きています。その方たちの体験談に耳を傾けてほしいと思うのです」と話す。

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こうした「体験談」から、日本に対する責任の追及や賠償の問題を連想する人も多い。朴壽南氏は「この映画を一番見てほしいのは日本の方ですが、喜んで見に来る日本の方はほとんどいないでしょう。憂鬱だし、見たくない、知りたくない、見ても見ないふりをしたいという気持ちも働くでしょう」と語る。それでも、「被害に遭った人の悲しみを知ってもらえたら」とも語る。

今回、一部で同時上映される1986年、朝鮮人被爆者のドキュメンタリー映画『もうひとつのヒロシマ』(1986年)では、16人の在日朝鮮人被爆者がインタビューで登場する。日本の責任を告発する人はなく、皆、とつとつと自らの体験を語っていく。朴麻衣氏も「母が作ってきた映画の画面には、多くの人々の言葉にならない表情があふれています」と語る。

実際、日本と韓国の経済的関係を整理した日韓請求権協定が1965年に締結されたが、締結後に「原爆被害者」「慰安婦」「サハリン残留者」の問題が明らかになり、それぞれ改めて政府間合意や救済措置が取られた。朴壽南氏が原爆被害に遭った朝鮮人の取材を始めたのは1964年で、世論を喚起するうえで一定の役割を果たしたと言えるだろう。

朴壽南氏がフィルムで撮影した取材対象者だけで200人近い。それ以外にも大勢の人々の体験を聞き取ってきた。「まぶたのふるえ、息遣い、声にならない表情があります。映画は、活字では表現しきれない思いを伝えることができます」と話す。朴氏自身、「あまりにつらい体験談を聞くのが苦しくなって、この仕事を何度もやめようと思った」と話す。『もうひとつのヒロシマ』などの制作を契機に、韓国から手紙もたくさん届いた。涙の跡がにじんだ文面もあった。

戦後80年を迎え、「反戦平和」以外にも具体的に安全保障を論じ、考えなければいけない時代になった。軍事についてより具体的な議論をすべき時代だが、だからと言って、反戦平和の価値が失われるわけではない。映画『よみがえる声』のなかで紹介された証言を頭の隅に置いておくことも必要なことだろう。

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文=牧野愛博

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