専門性だけでは、複雑な課題は動かせない。異なる分野や価値観をつなぎ、まだ見ぬ「関係性」を設計する力がいま求められている。その実践者として、アートの領域で半世紀以上前から先を走っていたのが、勅使河原宏(1927〜2001)という表現者だった。
映画監督、陶芸家、書家、舞台美術家、そして、いけばな草月流三代目家元。勅使河原宏の多彩な肩書きの背後にあるのは、「ジャンルを横断すること」そのものを表現とした生き方だ。
もう一つ、彼が果たしてきた重要な役割がある。人と人、文化と文化、時代と時代をつなぐ“場のディレクター”である。
1950年代から70年代にかけて、戦後の東京に息づいた前衛芸術の拠点「草月アートセンター」。そこでは勅使河原宏のディレクションのもと、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、武満徹、オノ・ヨーコら、現在では世界的に知られるアーティストたちが活動を重ねていた。そこでの出会いと実験は、戦後日本の芸術に「世界と対話する場」のモデルを刻んだ。
今年、2027年に迎える勅使河原宏の生誕100周年に向けて、《Hiroshi Teshigahara: Visionary Worlds》と題した長期プロジェクトが始動。展覧会や映像、パフォーマンス、トークイベントなどを多層的に展開するという。現在、東京・赤坂の草月プラザ「天国」にて、その開幕展《SA NI HA|さには》が開催されている。
難しく考えずに、まず「感じてみる」
この展覧会は、説明が少ない。音声ガイドはもちろん、作品のキャプションもない。最初は少し戸惑うが、目と身体で作品と向き合うという、忘れかけていた感覚を呼び覚まされる。
入り口から一歩足を踏み入れ、まず目に入るのは、大小さまざまな石が配された、どこか緊張感のある「場」。その奥に、焼き締められた陶の作品群が静かに佇む。壁には越前和紙にしたためられた直筆の書。複数枚がコラージュされ、上下左右さまざまを向いた文字が、風にたなびくように、ふわりと吊り下げられている。
そもそも会場となった空間が、イサム・ノグチが1977年に手がけた石庭「天国」という作品であり、それ自体に驚くほどの奥行きと呼吸がある。陽が差し込み、水が流れる音が聞こえる。そこに「陶」と「書」の要素が加わり、素材と素材、作品と鑑賞者、あるいは鑑賞者同士の対話が、目に見えない形で交差している。

「さには」とは、神を迎えるために清められた庭を意味する古語だという。この展示全体もまた、そんな静謐な“迎えの場”のように思えてくる。なにか特定の意味を伝えるのではなく、見る人それぞれの中に残る「余白」こそが、この展示の本質だ。



