6月、日本繊維輸入組合が公表した「日本のアパレル市場と輸入品概況2025」で、日本でのアパレルの国産比率が1.4%にまでなったことが明らかになりました。
半世紀ほど前は日本の花形主要産業だった繊維業界の衰退が続き、日本のものづくりが風前の灯です。1990年時点では国内自給率が50%ほどで、服をひっくり返して品質表示タグを見れば2枚に1枚は日本製だったものが、今では50枚に1枚あればいい、というほどにまでなってしまったということです。
「ガチャマン」の時代から
この統計の歴史は僕自身の生まれてから10代までの実体験を如実に表しています。
僕が生まれ育った場所は名古屋の一角にある有松という小さな町で、江戸時代初期から400年以上続く有松・鳴海絞りという主に浴衣や着物を作る染色技法の産地です。分業制で成り立つこの地域には技法ごとに職人さんがいて、僕の小さい頃は日々忙しそうに動く職人さん達の手を見て育ちました。
しかし、産地の取りまとめ役である地域卸業者が、より安価な加工費を求めて絞り加工の生産を海外に移すことに舵を切ったことで、卸業者に頼っていた地域の生産者は次第に仕事が途絶え、技術を受け継ぐ術がなくなり、産地の高齢化とともに次世代の職人も不足し、バブルが弾けた頃、父親の世代がものづくりとしては最後になっていました。
それまでは数年おきに変えていた実家の車も、いつしか老朽しながらなんとか乗っていたりと、目に見えて家庭が経済的に圧迫しているのを感じていました。高校までは進学させてもらいましたが、大学に行きたいことを話した際には「自由にしていいけれど資金の援助はできない」と言われたことを覚えています。結局1年アルバイトをして自分で資金を貯めてイギリスに行きましたが、職人であった父の仕事は相当困窮していたと今振り返って思います。
父だけでなく周りの職人さんたちも同様に仕事が続かず、長い歴史と素晴らしい技術がありながらに廃業が増加。産地には海外でつくられた安価な製品がたくさん並んでいましたが、有松で作られたものはほとんどない有様でした。
東海地域には有松だけではなく尾州(愛知と岐阜の間にあるウール織物の産地)や遠州(静岡一帯の木綿織物の産地)、知多や伊勢地域の木綿など、糸編にまつわる歴史のある産地が多く、名古屋はその産業の一大集積地でもありました。トヨタも今では車の会社ですが、元を辿れば自動織機製造業、それは織物の産業がこの土地に多くあったからこそです。しかし、僕自身の実体験のようなミクロレベルもそうですが、マクロで見るこの地域も衰退の一途を辿ってきました。
上記のような織物の地域で、工場の方達とお話をすると「ガチャマン」という言葉を聞くことがあります。「ガチャンと機械が音を鳴らすと1万円儲かった」という意味で、当時の好景気ぶりを表しています。それが今では、海外製品に抗えず若手が減り、高齢化が進んでいる工場も多く、地域分業の崩壊が目の前にある状態です。



