二番手という言い方は当人たちにとっては忸怩たる思いかもしれない。しかし、その立場ゆえに生みだした知恵が、大和証券を日本のお金の流れを大きく変えるパイオニアにしている。「トップと同じことをやっても、差は開くだけ」
社長の日比野隆司が言うトップとは、野村證券のことだ。野村が必死に猛追したのが、大和が市場を急拡大させた「ラップ口座」である。個人の資産をラップのように大事に包んで、金融機関に運用を一任することからアメリカで名付けられた。
今年3月末の日本国内の契約残高は3兆8,973億円。1年前の2.8倍であり、そのうち大和証券は1兆2,429億円を占める。長年言われてきた「貯蓄から投資へ」というスローガンを、国民生活に浸透させる役割を担う結果となった。
もう一つが、自ら銀行をもつビジネスモデルである。2011年に設立したインターネット銀行「大和ネクスト銀行」は100万口座、預金残高は3兆円を突破。日比野の取り組みは、銀行による間接投資から証券会社による直接投資へとお金の流れを大きく変える牽引役となった。
だが、それは二番手の知恵以上に、「生き残り」をかけた彼の体験に源流がある。11年2月、日比野の社長就任が決定したとき、彼はメディアにこう書かれている。
「逆風の船出」
大和証券は前年度から赤字に陥っていた。リーマンショックの傷が癒えないなか、三井住友銀行と11年間続いた提携も解消。社長就任発表の翌月には東日本大震災が襲い、証券市場は厳しい環境下に置かれた。「逆風どころか、嵐」と日比野が言うように、この年の暮れ、米ムーディーズは大和証券の持ち株会社の格付けを「Baa3(ネガティブ)」に下げた。投資不適格の一歩手前という崖っぷちに立たされたのだ。しかし、彼は言う。
「相場観みたいなものですが、これ以上悪くなることはない、ちゃんとやるべきことをやっていれば、そのうちに業績はよくなると確信していました。当社の歴史の中で本当に厳しかったのは、1997年から98年です。格付けはBBBマイナスに加えてネガティブウォッチをつけられていた。ジャンクへのカウントダウンです。山一証券が破綻し、『次は大和だ』と囁かれていた頃です」
97年、42歳のときに日比野は会社が陥った難題から脱するための特命チーム「経営企画スタッフ」のリーダーとなった。バブル崩壊後の不良債権処理が終わらないうちに、総会屋利益供与事件が発覚。防弾チョッキを着用する社員すらいたほどで、連日、報道はヒートアップした。社会的信用は失墜し、四大証券の副社長以上の役職が一気に退陣する前代未聞の事態となったのだ。
山一証券の「飛ばし」など不正行為が明るみになる頃には、「どんなに言葉を尽くしても、社内の者ですら自社に疑いの目を向けるようになっていました」と日比野は振り返る。株を生業にしている証券会社でありながら、株価が下がり、株式市場から潰されかねない。
危機の対応をしながら、日本版金融ビッグバンがスタート。「昼も夜も週末もない」濃密な時間をすごしながら、一つひとつ問題を潰していく。その頃、彼が経営を見ながら痛感したのは、「バブル崩壊や不祥事などでアップダウンを繰り返さないで済むにはどうしたらいいか」だった。それが、委員会設置会社などの透明化、そして赤字にならない強靱な経営基盤である。
「ストック性の収益をいかに増やすか。投資信託の純増だけではなく、新しい収益をつくることをずっと考えていました」
インターネット銀行の設立には当初社内から反対の声があがった。しかし、手数料の自由化でネット証券の台頭は著しく、銀行は証券会社を買収している。
「銀行をつくり、証券会社に馴染みがなかったお客様に証券を知っていただく機会をつくる。証券口座と銀行口座の振替手数料を無料にしたり、口座間の自動振替を可能にするなどの利便性を高め、敷居を低くするのです」
時代の後押しを受けて、日比野らの取り組みは、「証券投資の大衆化」を切り開く。彼は社員たちに、
「難題から逃げるな。困難は成長の糧なんだ」と語りかける。そして、新入社員の壮行会で、彼はこんなメッセージを送るのだった。
「克服できない危機はない」。