袖口は、大人になる前に備える「美学」
周囲へのリスペクト、それはもちろん、身だしなみばかりではない。たとえば脱いだ下着を、洗濯機に入れるときの、妻の心情を慮れる男は素敵だ。レストランで、皿に残った食べ残しを始末する、店員の気持ちを思いやれる心は粋である。仰ぎ見てくる子どもの目に、どう映りたいのか考えてくれるパパがいい。
避けるべきは“なにも考えない”ことかもしれない。朝、あるものを、着てきた。そんなに臭くない。まだいける。白か灰色か覚えていない。そんな加点も減点もないモノクロな世界に、美しいだれかとのロマンスは生まれない。
イタリアの学生たちの就職活動の風景に、一律のリクルートスーツ姿を見かけないのは、それがどんな値段であっても、ジャケットは自分を表現すべきものだからだ。
彼らの袖口のはなしに戻そう。
イタリアはデザインスーツ発祥の地でもある。その服には、和服と同じように、歴史と伝統がある。肩の柔らかさにまつわるディテールや、カフスボタンへのパッション、どんなジャケットもグレードアップするベストという魔法、足首から靴にかかる遊び、そのすべてが大人の世界への入口だ。そこにどんなルールがあるか、父親は教えないだろう。上司もなにも言わないだろう。友人たちは、互いを見合いながら、ここがおかしい、こっちは男前だと、社会に出る前に意見を交換し合う。そうした場面が、あのときの喫茶店の風景だったのだ。
イタリアの男たちは、数センチにこだわる。袖口から見えるシャツは2センチくらい。肩から袖口までさがっていくラインは、あくまで滑らかに、スキーの滑走路のように凹凸なく下降していきたい。肩口は目が覚めるような逞しいラインを描き、ウェストはスマートに腹を締め、その先の働く両手は無骨でもいい。
みんなそのこだわりのなかに、ほんとうは繊細な自分と、仕事場で闘わなければならない強面の自分に、うまく折り合いをつけて表現している気がする。