『ゴジラ-1.0』はかなり忙しい映画だ。2時間半かけても、ストーリーに字幕説明が追いつかず、かなり端折っているところがある。なかでも、駐留軍がゴジラ撃退に非参加の部分は、見方によっては特にそれが顕著な気がする。
『ゴジラ-1.0』の設定では、アメリカ軍がゴジラ撃退に出動しないことが戦闘や破壊シーンを面白くしていることは言うまでもない。少ない武器、限られた弾薬で戦うしかないという状況がゴジラへの恐怖を増す。
しかし、日本に駐留しているアメリカ軍がゴジラの「侵略」に対して東側陣営を刺激したくないことだけを理由に「なにもしない」という選択はアメリカ人の観客たちにとって、どの程度の納得が得られただろうかと筆者は気になりながら見ていた。アメリカ人が知っているアメリカは、「いつもなにかしてきた」アメリカだからであり、現在もウクライナに膨大な武器と弾薬を無償供与している。
さらに『ゴジラ-1.0』の舞台となった1940年代後半は、ダグラス・マッカーサーが日本に連合国軍最高司令官として駐留し、日本が再武装しないように監督していた時代であった。日本を武装解除させ、自軍を駐留させておきながら、日本の存亡にかかわる防衛に無視を決め込むという流れは駐留政策としてリアリティを欠き得る。
ましてや、この数年後に、サンフランシスコ平和条約(1951年)を結ぶことでやっと日本は本当の終戦を迎えるところであり、同日に結ぶ日本とアメリカとの安全保障条約(旧日米安保条約)作成に向けて両国政府が交渉を続けていた時期だ。
しかしアメリカでの字幕はそこをうまくクリアしており、筆者が見渡す限り、このような状況を批判する声はない。
同時に、主人公の特攻隊員としての悩みや、旧帝国軍が兵士の命を粗末にしたことの反動があったので、旧軍人が指揮を執るゴジラ攻略の民間のグループに加わらなかった人たちがいたという微妙な描写も限られた文字数のなかで翻訳は相当にうまくやり、アメリカ人の観客の賛同を勝ち得たようだ。
もちろん、格段にレベルアップした日本のCGにも絶賛の声は枚挙にいとまがない。ハリウッド版のGODZILLAは、その多くの戦闘シーンが夜間に行われ、CGのボロをださないためのさもしい知恵だという悪口もときどき聞くが、『ゴジラ-1.0』は、多くが日中の堂々たる東京侵攻だ。
今回、本家のゴジラがサブカルとしてではなく、メインカルチャーとしてグローバルゴジラが登場したことはまことに喜ばしい。アジア映画といえばアメリカでは圧倒的に韓国とインドの映画が定番だが、『ゴジラ-1.0』は日米のゴジラを繋ぐことに挑戦してくさびを打ち、今後の日本映画がアメリカの映画館できちんと上映される道筋をつけてくれたと言えるかもしれない。
その意味で、「ゴジラ-1.0」のアメリカでのヒットは画期的なのである。
連載:ラスベガス発 U.S.A.スプリット通信
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