サーカスの美人曲芸師をめぐってクラウンとピエロが対決する物語は単純でわかりやすい。だが、そこで描写される哄笑、恐怖、エロス、そして哀愁は、私たちの心を前後左右に大きく揺さぶるのだ。
画家の鴨居玲は、一時期スペインに滞在しながら絵画を描いていた。皺の深い老婦人や千鳥足の酔漢、魂が抜けたかのようなピエロ。それらに通底するのは、何かを語りかけてくる主体性がほとんど見受けられないという点である。むろん特定の物語に依拠しているわけではないので、彼らがどんな人間なのか、端から手がかりは少ない。けれども、どれだけ想像を膨らませても、彼らの内実をとらえることは難しい。鑑賞者の視線を誘いながら、それをどこまでも吸収し、闇の中に包み込んでしまうのだ。
たとえばピエロ。それが道化師のなかでも、とりわけ哀愁を帯びたキャラクターであることはよく知られている。しかし鴨居玲が描き出すピエロは、哀しさを醸し出しながらも、同時に、その哀しさの先にまで突き抜けているように感じられるのだ。悲哀を覚えることはまちがいない。けれども、その言葉からはみ出すような感覚がないわけではない。その尖端部分を虚無というべきなのか、あるいは名状しがたい感覚というべきなのか、正確にはわからないが、いずれにせよ見る者の心に底に深い謎が残されるのである。
イグレシアのピエロとは対照的に、鴨居玲のそれは、何も語らない。だが語らないがゆえに、鑑賞者の心にざわめきを引き起こすことがある。晩年の大作《1982年 私》にしても、絵画を描くことができなくなった自画像として考えられることが多いが、これはむしろ鑑賞者の視線を深い闇の中で彷徨させる装置なのではないか。茫漠とした荒野に佇むとき、誰もが心の内側に視線を反転させてしまうように、鴨居玲の自画像は、もしかしたら私たち自身の自画像なのかもしれない。
『没後30年 鴨居玲展 踊り候え』
UNTIL 〜7月20日(月・祝)
LOCATION 東京ステーションギャラリー