多数派と正義は同義ではない

川村雄介の飛耳長目

バブル崩壊後、大手証券会社は損失補填問題などで批判に晒されていた。決算発表時の新聞記者の勝ち誇ったような質問を忘れない。「証券会社が収益なんか上げてよいのか?」

大手証券会社は上場株式会社である。主要な目的は営利活動にある。これを説明する財務担当役員に、彼の息子の年齢のような記者は詰問した。「わかってませんね。証券会社は現代版シャイロック。利益なんか出しちゃダメだ。シェークスピアくらい読みなさい」

当時の証券会社の営業姿勢に大きな問題があったことは間違いないし、「もうけ方」にも社会性(サステナビリティ)が不可欠であることは当然である。さりとて、営利企業に利益を上げるな、と言い切る発想は明らかに誤りだ。しかし、世間の空気は怖い。正論にも本質にもお構いなく、声の大きいほうが勝つ。少数派は「わかっていない」と葬られる。

昨今、日本を含めて民主主義や自由を信条にしている国々で、こうした傾向が目に余るように感じている。ダイバーシティを喧伝する一方で少数説を封殺し、思想言論の自由を叫びながら多数派のみ正義とする風潮がまかり通っていないか。

民主・自由主義の本髄は、闊達な議論と多様な意見を認めることにこそある。啓蒙思想家のヴォルテールだったか、「貴方の意見には反対だ。でも、貴方が意見を言うことは断固守る」ことが重要である。足元の雰囲気は、逆に「権威主義的民主主義」の観すらある。SNSがこれに輪をかけている。

少子高齢化問題もそうだ。いまや出生数は、私の世代の3分の1にまで激減しているから、多くの人が大変な事態と感じるのはもっともである。少子高齢化は国を危うくする、産めよ育てよ、と叫ばれる。間違っても、少子高齢化でも構わないなどと言える雰囲気ではない。

確かに町に若者があふれていた時代は活気があったし、経済の高度成長と相まって夢多き日々だった。だが、スマホもAIもなく、自家用車やエアコンをもつ家庭は稀、家庭電話すら少数派だった。

今後、SF小説を上回る社会が生まれ、機械が人間の代わりになりそうな時代に、果たして人的労働力が増えることが一方的によいことなのか。

知り合いの若いカップルが言う。「少子化対策で高齢者の負担を増やしている。私の親は、40年以上働いても年金満額支給は逃げ水のように遠のき、あげくに介護保険などの負担が増え続ける、年を取って良いことなんかないと嘆く。私たちもいつかは老人になる。そんな高齢者地獄の国で、子どもなんかつくれませんよ」
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