子どもは精神的な安全地帯に
幼い息子の存在が、シングルファーザーが死に物狂いで頑張る機動力になっているドラマでは、『チャンプ』(1979)が有名だ。目的のない生活を送っていた元チャンピオン・ボクサーのビリーは、自分を「チャンプ」と呼び続ける息子TJに応えるため、一念発起して再起を果たし、リングで死闘を繰り広げる。このドラマの父と息子の緊密すぎるほどの心の繋がりは、何年にも渡って2人が支え合いながら生きてきたためだが、クリスとクリストファーの間には、このような関係性はない。まだ5歳のクリストファーは、自分の身に降りかかってくる出来事に対してひたすら受け身であり、母の去った後は父クリスを信じてついていくしかない弱い立場にある。
ビリーとクリスの共通項は、息子の信頼を裏切ってはいけない、一刻も早く応え、息子の心からの笑顔を取り戻さねばならない、そのためには一発当てねばならない....という強い焦りに突き動かされている点である。それゆえ、ビリーの最後のファイトが無謀であったように、クリスの挑戦も(成功したから良かったとは言え)常識外れだったのだ。
骨密度測定機器をタイムマシンと思い込んだホームレスの男から、やっとのことで機械を取り返したのも束の間、破産してモーテルを出ることになったクリスが、クリストファーと二人行くあてもなく列車に乗り続けるシーンは、ドラマ中もっとも重苦しい。
ついに終車の去ったホームのベンチで、ぽつんと「タイムマシンじゃない」と呟いた息子に「タイムマシンだ」と返してからの、一連の遊びのようなやりとりがある。
ここで、イタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997)における、収容所での有名なシーンを思い浮かべる人は多いだろう。ナチによって幼い息子と共に強制収容所に送られた父グイドが、息子を不安と恐怖から守るために「これはゲームなんだ」と突拍子もない大嘘をつく一連の場面だ。
クリスも、機械をタイムマシンだと言い張ることによって、自分たちは”恐竜時代に生きている原始人”という設定にクリストファーを引き摺り込み、さらには”洞窟”に隠れる名目で、駅のトイレで息子と一晩を過ごす。
住処を失い駅のトイレで寝るというこの上ない惨めさを、なんとかファンタジーに包んで息子の気持ちを救いたいという苦肉の策。自分が人生で最大のピンチに直面していても、子どもは精神的な安全地帯に置いておかねばならないという、使命感にも似た親の気持ちがよくわかるエピソードだ。
実在の人物でありながらクリスには、かつての映画が描いてきた、破れかぶれながらも全力で戦おうとする、印象深い父親たちの姿がこだましている。
連載:シネマの男〜父なき時代のファーザーシップ
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