北米

2023.05.14 08:00

焦る外務省、憤る防衛庁 元米外交官が語る40年前の日米同盟

縄田 陽介
2037
カイザー氏が当時、協議していた防衛庁の高官はいつもこうぼやいていた。「東京大学を出たのに、怪しい仕事をしていると、周囲から思われています。妻も堂々と私の仕事を説明できないんです」。ある日、この高官は、カイザー氏にパレスチナ解放機構(PLO)についてどう考えるか、尋ねたという。「なぜ、日本の役人がPLOに関心があるのか」と尋ねると、この高官は「日本は敗戦を契機に、安全保障について考えることをやめてしまった。イスラエルに負けても、決してあきらめない姿勢を見習いたい」と話したという。

当時、日本政府はカイザー氏にソ連・東欧の情報提供を求めた。カイザー氏はロシア語ができたため、ソ連や旧東欧諸国の在日本大使館主催パーティーなどによく顔を出していた。カイザー氏は「でも、当時の日本はみな縦割り主義で、バラバラでした。お互いに情報共有できないので、何度も私のところに話を聞きに来ていました」と語る。一番多いときで、カイザー氏と彼の同僚は、8回も同じ内容の説明を、異なる日本の関連政府機関に対して行ったという。

当時の米国大使館を率いていたのが、マイケル・マンスフィールド大使だった。上院議員の有力者だったマンスフィールド氏は当時のカーター大統領と強いパイプがあった。ある日、マンスフィールド氏はカイザー氏を、横田の在日米軍基地に派遣した。在日米軍が議長を務める内部会議にカイザー氏を出席させ、日米共同作戦計画の状況と内容についてブリーフィングを受けてもらうことが目的だった。ところが、在日米軍はこの会議を突然、延期した。カイザー氏は「明らかに彼ら(在日米軍)は私に出席してほしくありませんでした」と振り返る。マンスフィールド氏は、カイザー氏にホワイトハウスに直接、電報を入れるよう命じた。翌日、在日米軍基地から前日の非礼をわび、早急に議論を行いたいという申し入れが来たという。

マンスフィールド氏の大使在任期間は1977年から88年まで続いた。81年、カーター政権からレーガン政権に代わったが、ロナルド・レーガン大統領はマンスフィールド氏の業績を高く評価し、対日政策をそのまま維持することを認めたという。

あれから40年の時が流れ、日米同盟という言葉も定着し、様々な防衛協力が進んでいる。カイザー氏は「日本を取り巻く安全保障の環境が大きく変わったからでしょう。でも、その間、様々な人たちが日米同盟を維持するために、色々な努力をしてきました。その積み重ねが、今の同盟関係につながっているのです」と語った。

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文・写真=牧野愛博

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