迎えにきてくれた米国の知人は「最近、日本の評判が良いんだよ」と語る。パナソニックエナジーが、カンザス州に電気自動車(EV)対応の⾞載⽤バッテリー新工場を建設しているからだ。知人が聞いたところでは、4千人くらいの雇用が生まれるという。
知人は「工場を見に行こうか」と誘ってくれたが、別に行きたい場所があった。空港から車で30分弱の場所にある「ハリー・S・トルーマン・ミュージアム」。トルーマンはカンザス州の隣、ミズーリ州で生まれた。同州選出の上院議員を務めた後、副大統領となり、1945年4月、ルーズベルト大統領の死去で大統領に就任した。
トルーマンがよく日本で知られているのは、1945年8月の広島・長崎原爆の投下を命じた人物だからだ。米国は原爆投下について、一貫して謝罪を拒んできた。逆に、「原爆投下は戦争終結を早めるための、仕方のない選択だった」という主張もよく耳にする。トルーマンの博物館が原爆投下についてどのような展示を行っているのか、興味があった。
月曜日ということもあり、博物館にいる間にすれ違った訪問客は30人ほど。全員が白人だった。トルーマンの幼少時代から晩年までを振り返る展示だが、白眉は第2次世界大戦から冷戦に至るまでの展示だった。なかでも、原爆投下に至る経緯を時系列で説明していた。
展示物は、トルーマンらが日本との戦いで、どうやって犠牲者を減らすことができるのか苦心していた様子を強調していた。1944年当時、ルーズベルト大統領とトルーマン副大統領が様々な書き込みをしながら、戦略を練った日本周辺の地図も展示されていた。房総半島の脇には手書きの矢印とともに、「1945年の秋に侵攻」というメモが書き込まれていた。米側に「地上戦なしでは、日本は降伏しない」という意見があったことも紹介されている。このため、トルーマンがスターリンにソ連の参戦を促したという紹介もあった。
原爆の開発を巡っては、多数の被害が予想されることから、米国が使用をためらった経緯が紹介されている。「軍事目標に限るべきだ」「まず、殺傷を伴わないデモンストレーションを行うべきだ」などの意見も検討されたが、「日本では軍事工場が民間施設と混在している」「デモを行った結果、より戦闘が激化する」などの理由から退けられたという記述もあった。もちろん、原爆使用を巡るトルーマンの謝罪や後悔の言葉が紹介されているわけではない。