健康

2023.04.08 17:30

39歳、突然の別れ 地域に引き継がれた遺志 #人工呼吸のセラピスト

第1回ごちゃまぜ運動会ではしゃぐ押富さん(右) 酸素ボンベと人工呼吸器を装着している=2017年11月、尾張旭市で

第1回ごちゃまぜ運動会ではしゃぐ押富さん(右) 酸素ボンベと人工呼吸器を装着している=2017年11月、尾張旭市で

「50歳ぐらいまでは生きられるかな。生命力は強いほうだし」。人工呼吸のセラピスト、押富俊恵さんがブログでつぶやいたことがあった。本気でそう思っていたのか、仲間に心配をかけないための楽観的な情報だったのか、今となっては分からない。
 
中日新聞の医療担当記者だった私は、それを鵜呑みにして「密着取材はコロナが明けてから」と暢気に構えていた。命の旅の終わりが近づいていたことを気づかずに。
 
前回:電動車いすと酸素ボンベと、笑顔。彼女から学ぶ「人間力」

「オッシーは死なない」と思い込んでいた

2021年4月23日、金曜日の午後。家族の受診に付き添って病院の待合室にいたら、友人の林ともみさんからメールが届いた。
 
「先ほど、押富さんが亡くなったそうです。ショックです。信じられません」
 
思わず「えっ」と叫んだ。
 
林さんと押富さんの3人で食事をしてから半年が過ぎていた。次はカラオケにも行きたいねと話し合っていた。重い呼吸器疾患で入院するのが年中行事になっていたが、ブログやFacebookの更新が途切れてもしばらくすると「実は入院してました」と、軽い調子で復活宣言をするのが押富さん。「オッシーは死なない」と私たちは勝手に思い込んでいた。
 
かなり動転しつつ、訃報を書くために葬儀日程などの情報収集を始めた。医療記者として避けては通れない喪の作業だ。
 
後で聞いた話だが、静岡県に嫁いだ姉・由紀さんは危篤の連絡を受けて前日の22日に病院に駆けつけた。妹は既に集中治療室を出て元の病室に戻り、強い麻酔薬で傾眠状態に入っていた。体重が落ちて細くなった寝顔に「今までよく頑張ったね」と声をかけた。
 
いつもそばにいた母・たつ江さんが最期をみとった。病院の看護師たちが次々にお別れの挨拶に訪れて、お化粧を施してくれたのが、うれしかったという。看護師の一人が「押富さんってこんなにかわいかったっけ」とつぶやくのを聞いて「そうだよ。あの子、いつも悪態をついてたから気づかなかったんだね」と、たつ江さんはふだんと同じ調子で混ぜっ返した。家族には、とっくに覚悟ができていた。
 
翌朝の中日新聞県内版に、小さな訃報が顔写真入りで載った。
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弔辞を読んだ元同僚 思いをつなぐ

遺影の前には、手芸作品や仲間が作ったアルバムも飾られていた

自宅の遺影の前には、手芸作品や仲間が作ったアルバムも飾られていた


 押富さんと一緒にNPO法人ピース・トレランスを立ち上げた河内屋保則さんによれば、お通夜と葬儀には、母・たつ江さんやNPOの仲間たちも面識のない弔問客が次々に訪れ、彼女が紡いだ人脈の広さをまざまざと感じたという。
 
弔辞を読んだのは「当事者セラピスト」として一緒に各地に講演に出かけた山田隆司さん。
「口が悪くて、世話のかかる後輩でした。信頼する戦友で、尊敬する相棒でした」で始まる追悼のメッセージに、参列者たちは天国でニヤニヤしている彼女を思い浮かべ、悲しみに浸った。
 
日本福祉大高浜専門学校の球技サークルで知り合ったときから、生意気で馴れ馴れしくて、でも部活の練習や雑用に決して手を抜かない後輩だった。天性の作業療法士だと思えた彼女が難病で仕事を続けられなくなったと知ったときは、自分が苦しくなるほどの衝撃を受けた。
 
話す力を徐々に取り戻した押富さんに、母校の卒後研究会での発表を手伝ったことがきっかけで生まれたのが当事者セラピストのコンビ。
 
当初は正論を主張して言葉がきつくなりがちだった彼女を抑えつつ、柔らかな空気にしていくのが山田さんの役割だった。その一方で、押富さんが聴衆を惹きつける力にはいつも驚嘆していた。
 
「君が伝えたい思いを、少しでも次につないでいけるようにするね」と締めくくった山田さん。涙声になるのを抑えられなかった。
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文、写真=安藤明夫

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