しかし、松村氏はこうした動きについて「情緒的すぎて、なぜ統合司令部を置くのかという意味がわかっていないようです」と嘆く。
統合司令部の構想が持ち上がった背景には2つの事情があるとされる。一つは2011年3月の東日本大震災の際、統合幕僚長が首相や防衛相を補佐する仕事に忙殺され、適時に各部隊への指示が十分できなかったという反省がある。もう一つは、米国から「有事になれば統合任務部隊司令官ができるだろうが、平時でもインド太平洋軍司令官のカウンターパートがほしい」という声が上がっていたからだ。平時からカウンターパートがいれば、演習や協議が円滑に進むというわけだ。
ただ、統合司令部を市谷に置こうが、どこに置こうが、政府・自衛隊には致命的な欠陥がある。松村氏は「どこまで政治が決断し、どこまで自衛隊に任せるのかという基準があいまいだからです」と語る。米英などはそれぞれの作戦に応じ、師団長や連隊長などのレベル別に「何ができて、何ができないのか」という権限を明確に与えている。日米共同訓練などの際、米軍側の指揮官が「これは私の権限でできるが、あなたはどこまで権限を与えられているのか」と聞いてきて、日本側を戸惑わせるケースもよく見られる。松村氏は「米軍は実戦を経験していますから。実戦では、これから行う作戦が部隊や近隣住民に及ぼす被害の程度によって、判断できる指揮官のレベルを上げたり、政治に委ねたりする基準を明確に定めなければ、政府も軍も軍事作戦ができません」と指摘する。戦時に、指揮官が、これに反した誤った判断をすることもある。それを律するために軍事法廷の設置を含む軍法がある。
これに対し、日本の自衛隊は軍隊というよりも行政組織の一つだ。指揮官の権限に明確な区別がなく、軍法もない。何か問題があれば、権限も責任も限りなく上に上がっていく。先の大戦で「軍の暴走を許した」という発想から生まれた組織形態だが、このまま統合司令部を市谷に置いても、統合司令官は戸惑うことになるだろう。
大臣に最終的な責任があるなかで、統合司令官は「いつから、どの範囲で、何を」決められるのか、明確に定める必要がある。自衛隊が「行政組織」になっているため、先の大戦と同じように軍が暴走することはない。その反面、権限区分が不明確なままで、日米の司令部間だけが緊密になれば、より米側の軍事的要請に従うようになるだろう。松村氏も「結果的に、政治のコントロールが及びにくくなるわけです」と語る。
先の大戦の過ちに学ぶことは重要なことだ。しかし、その思考からいつまでも抜け出せないと、第2の悲劇を招くことになりかねない。