途中、メンバーの出入りやバンドの解散、ヒット曲から見放されたスランプの時期もあった。1970年代に入って、それまでの美しいバラード中心の曲から、一転、ディスコ調の曲に「転向」したのも、評価としてはマイナスに響いているのかもしれない。
ビー・ジーズは1950年代後半に、バリー、ロビン、モーリスのギブ3兄弟で音楽活動をスタートさせている。出身はオートレースで有名なイギリスのマン島だが、両親とともにオーストラリアへと移住。1963年にオーストラリアでレコードデビュー、10代の頃からヒット曲を放ち人気を得ていた。
1967年、ビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインに見出され、イギリスに渡って3兄弟に2人のメンバーを加え「ニューヨーク炭鉱の悲劇」で世界デビュー。アメリカでも「マサチューセッツ」や「獄中の手紙」などがヒットチャートの上位にランクされる。
しかし、2年余りの活動のなかでメンバーの脱退やロビンの独立などが相次ぎ、バンドは空中分解状態となる。1971年、再起を期してシングルカットした「ロンリー・デイ」がヒットを記録すると、続いて「傷心の日々」は初の全米第1位に輝く。しかし、その後はまた路線の模索が続き、低迷期を迎える。
「サタデイ・ナイト・フィーバー」は世界中にディスコブームを巻き起こした / Bill Bernstein/Courtesy The I a Hill Gallery. London
ビー・ジーズを再びスターダムにのしあげたのが、1977年に公開された映画「サタデー・ナイト・フィーバー」だ。その2年前に発表した「ジャイヴ・トーキン」からリズム主体のディスコ調の曲を手がけ、「サタデー・ナイト・フィーバー」にも「ステイン・アライブ」や「恋のナイト・フィーバー」などを提供したのだ。映画とともに、世界的大ヒットを記録する。