中道:型が出来上がると、そこに思想が入ってくるとは、独特の考え方に思えます。どのように理解したらいいでしょうか。
岩本:型自体、身体表現の延長線上にあり、体が一番動きやすいように作られてきました。一方、先人たちによってつながれてきた型があるからこそ、自分なりに解釈して、その型の中で遊んでみることもできます。型という行動の解釈を自分なりに後付けすることで、型に意味がついてくる感じでしょうか。
型を続けることで、それが「なぜできたのか」「何のためにあるのか」と考え、そこから自分なりの考え方が生まれれば、自分なりの型が少しずつ作られていくものです。
中道:聞いていて、学生時代の数学を思い出しました。僕自身は数学が得意ではありませんでしたが、同じような計算式を何度も繰り返していると、何かの拍子に自分なりの応用が思いつくことがあります。似た感覚と言えるのでしょうか。
岩本:非常に近いと思います。毎日同じ行動をしているからこそ、昨日との違いに気づけるようなもので、例えば毎日抹茶を点てて、「今日は抹茶の点ち具合が悪いな」と感じたら、自分の心理状況の悪さにも気づけます。毎日、同じ型を続けることで気づきがあり、変化も感じられます。
中道:「道」は日本独自の考え方ですが、型も共通の感覚なのでしょうか。
岩本:自分の思想が型に入っていくイメージは、おそらく茶道に限らず、「道」の世界を体験している方たちにとって共通の感覚だと思います。
お茶はコミュニケーションだと言われるように、自己との向き合いでの内省、一対他者での対話、多数では茶会、あるいはもてなしという表現ができます。これらの言葉は対象こそ違えども、「向き合うこと」は共通であり、それこそが「道」の考え方であり、精神性と言えます。
華道も、自身と向き合った結果をお花で表現し、それを通じて人々がコミュニケーションを取るため、内省でもありコミュニケーションでもあります。空手も稽古で自己と向き合い、組手で相手を知る形になるように、向き合うことが「道」であり、日本の文化になります。
中道:なるほど。最近まで学生だったと思いますが、その頃から起業のイメージは抱いていたのでしょうか。
岩本:そうですね。以前から起業するとは決めていました。
私は、「自分にできること」と「社会が期待すること」の差分にやりたいことがあるのではないかと考えていて、茶道での起業もその考えがもとになっています。そして、自分のできることの最大値と、社会から求められることの最大値を広げ続ければ、やがて自分のできることで社会からも求められる、自分のやりたいことが生まれるはずです。
若いうちからお茶に目覚めてずっと続けてきたなかで、茶の湯や茶道という文化の衰退は感じてきました。茶道人口の減少はもちろん、茶室や工芸といった需要も激減しています。
「自分が好きなものが、なぜ社会に評価されないのか」と考えるなかで、英語での発信など自分ができることと、社会が求めていることが重なり、起業というやりたいことの実現に至りました。
中道:海外留学は、お茶を世界に伝えたいという気持ちがきっかけでしたか。