実は、中井さんは、父親も日本映画を代表する映画スターでした。戦後、木下恵介や小津安二郎など名監督の作品に出演していた佐田啓二さんです。しかし、1964年、37歳でまさかの交通事故で逝去します。中井さんはまだ2歳でした。
芸能界入りしたのは、大学在学中。デビュー作は「連合艦隊」(1981年)でした。この作品で、いきなり日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞します。その後、数々の映画やドラマに出演しますが、その多くが日本映画を代表する作品だったり、話題のテレビドラマだったりしました。
中国映画への出演が転機に
その自らの仕事ぶりについて、中井さんはこう語っていました。
「僕は父が交通事故死した37歳で、自分の人生も終わると本気で思っていたんです」
成人式など迎えても、まったくうれしくなかったそうです。30歳からは、「あと7年、あと6年」とカウントダウンをしながら生きていたといいます。それ以降の人生は考えていなかった。だからこそ、アグレッシブに仕事に挑んだのです。
その37歳を過ぎ、ようやく中井さんは吹っ切れることになります。これからようやく自分の人生が始まるという気持ちになり、38歳になって結婚、あらためて決意を固めます。「守りに入らない生き方を貫こう」と。
その1つの現れが、中国映画「ヘブン・アンド・アース 天地英雄」(2004年日本公開)への出演でした。日本で俳優をしていても、それなりにやっていけました。しかし、“それなり”で本当にいいのかと自ら向き合ったのです。たった一度の人生、自分で責任を取って、思い切り生きるべきではないかと。
中井さんは、たった1人で中国に乗り込みます。
「それは衝撃的な経験でした。日本では、どんなに過酷な撮影現場でも水道をひねれば水は出るし、生活に必要なものは手に入る。でも、世界に出れば違うんですよ。まともなトイレもなければ、食事もない。映画製作のシステムも違う」
水道も使えず水も飲めない環境での長期撮影。しかも日本人は中井さん1人。効率的とは言えない映画製作のシステムのなか、理解できないことも多かった。毎日、歯を食いしばって乗り切るしかありませんでした。