若手の頃から病院の作業療法士として熱血ぶりを発揮していた。そんな彼女が重症筋無力症と診断されるまでにも、紆余曲折の道のりがあった。今回は、押富さんの力の源泉を探っていく。
(前回の記事:ある日、呼吸を奪われた。それでも私は楽しむ)
幼少期の押富さん
押富俊惠さんは1981年、愛知県尾張旭市に生まれた。会社員の父・忍さん、母・たつ江さんと、5歳上の姉・由紀さんの4人家族だった。
たつ江さんによれば、小さなときから元気で、やさしくて、そして頑固な子だった。幼稚園のとき、太陽の絵をオレンジで塗ったら、先生から「太陽は赤でしょ」と言われ、納得できなくてしばらく先生を無視したという。
寝たきり男性の在宅復帰を全力応援
一方で、自分がやると決めたことには、決して手を抜かなかった。小学校時代にミニバスケットボールを始め、中学では女子バスケの中心選手に。背は低いが敏捷で、チームをまとめる力が高く、強豪高校の監督から特待生の誘いも受けた。でも、それを断って、バスケでは無名の県立松陰高校(名古屋市中村区)に進み、初の県大会出場の立役者となった。
愛知県高浜市にあった日本福祉大学高浜専門学校(2010年に閉校)に入り、作業療法士になるための勉強に励む傍ら、障害者スポーツを指導するボランティア活動も始めた。
専門学校時代の押富さん(左)子どものころから「やさしくて頑固だった」と評される
就職先の偕行会リハビリテーション病院(愛知県弥富市)でも、患者の支援に対する押富さんの熱意は、先輩たちの語り草になっている。
3年目の24歳のときは、寝たきりの男性患者を在宅復帰させるという難題に取り組んだ。車を運転中に脳出血を発症して、事故により右脚を切断。右半身まひ、失語の最重度の患者だった。退院後は施設に移る方針だったが、押富さんはいつも勤務の後、病院に残って患者や家族と会話していたため、奥さんの本音を聞くことができた。
「短期間でもいいから、もう一度、自宅に戻らせてあげたい」
言い出すのがわがままに思えて、スタッフに告げられなかったのだという。
自分の担当患者ではなかったが、「なんとかしてあげたい」と情報を集めた。そして、介護機器のメーカーが、電動で昇降する座椅子を、デモンストレーション用に貸し出していることを知った。「これを使えば、在宅介護の労力が軽くなる」と、リハビリの手順、機器の置き場所などを資料にまとめ、上司の赤坂佳美さんに相談した。
赤坂さんは、熱意に押され「やってみたら」と許可。チームの支援方針は「施設入所」から「自宅復帰」へと変わり、翌06年1月初め。男性は、スタッフに付き添われ、念願の自宅に戻ることができた。
しかし、その場に押富さんの姿はなかった。前夜に、突然に呼吸が苦しくなって、かかりつけの大学病院の救急外来を受診し、そのまま入院したのだ。
喘息と言われたけれど...
押富さんは専門学校時代の20歳のころから、時折、咳込んだり、息苦しくなる持病があり、気管支喘息と診断されていた。
経口ステロイド剤を飲むと症状が収まることから、本人はあまり気にしていなかったが、次第に発作の頻度が増えて、息苦しさや倦怠感などの症状も強くなり、2005年だけで計4回の短期入院を経験した。