宇沢の人生を追った評伝『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』(2019年)は今年、第10刷に。なぜ、注目されるのか。著者でジャーナリストの佐々木実にインタビューを行った。
佐々木 実 ジャーナリスト
──宇沢弘文とはどのような出会いだったのか。
竹中平蔵について書いた『市場と権力』の取材で、宇沢が仲裁した竹中をめぐるトラブルについて聞いたのが最初の出会い。しかし、それよりも新自由主義を調べていくうえで、あのミルトン・フリードマンが宇沢とシカゴ大学の同僚で、意見が対立しながらも親しかったということに興味をもっていった。
──アメリカで多くの大物経済学者に取材している。
2014年の宇沢の没後に話を聞きにいった。宇沢はケネス・アローに招かれて28歳で渡米した。経済学界を先導していたポール・サミュエルソンやロバート・ソローなどから高く評価され、1960年代には宇沢の名が世界にとどろくようになった。シカゴ大学では全米から優れた若手を集めた研究会を主宰、教え子にはジョセフ・スティグリッツなどのちのノーベル経済学賞受賞が何人もいた。スタンフォード大学教授を務めた青木昌彦は「数理経済学の最先端で活躍して、あそこまで尊敬された経済学者は日本人ではあとにもさきにも宇沢さん以外にはいない」と語っていた。サミュエルソンに「あなたは間違っている」と言わんばかりの論文を送りつける鼻っ柱の強い若手学者であり、その個性はアメリカでも相当際立っていた。
──キャリアの絶頂期にアメリカを去り、日本に帰ってきた。理由は謎だと書いている。
ベトナム戦争の影響が大きかった。宇沢はこの戦争に憤り、シカゴ大学で反戦運動に熱心に参加した。戦争に経済学者が深く関与していたことも宇沢に深刻なダメージを与えた。マクナマラ国防長官はハーバード大出身の元経営学者、経済発展論で著名だったロストウは大統領補佐官としてゲリラ対策に従事した。マクナマラやロストウは軍隊の運用や敵兵の殺戮という「目的」を「効率的」に達成するために経済学を最大限に利用した。それは宇沢が手がけてきた数理経済学の成果を含むものだった。
日本に帰国後、宇沢は自身がその先頭集団に属していた主流派(新古典派)経済学を激しく批判するようになる。「効率性のみを追求し、公平性や公正性を等閑視する」というのが理由だった。突如アメリカを離れ、経済学批判に転じたのは、ベトナム戦争を抜きに説明できない。1928年生まれの宇沢は戦時下で青春を過ごし、戦争が人生の出発点だった。食べる物も十分でない敗戦直後の混乱期に河上肇の『貧乏物語』を読み、数学者への道を断念し、経済学者への転身を決意した。荒廃した社会を癒すため、「社会の医者」になる。それが宇沢の初志であり、私が取材した晩年も「初志を大事にしたい」と語っていた。