いまや世界の個人資産の4割近くが、わずか1%の超富裕層に独占されているという。富の偏在がもたらす現実の深刻さは、6人に1人が貧困だとも言われるこの東洋の島国にいても、ひしひしと伝わってくる。
「マネーの魔術師 ハッカー黒木の告白」という小説に登場する謎の男を、そんな世界を憂う1人と説明してもあながち間違いではないだろう。
瀕死の伝統工芸に救いの手を
男の職業はフリーランスのコンピュータ・プログラマーだが、名乗った「黒木透」という名前は、実は偽名である。
まだ世界がコロナ禍を知らない初秋のある日のこと、彼は長髪をなびかせ地上に降り立つ神のように、本州のほぼ南端にあたる和歌山県南部の鄙びた田舎町に忽然と現れた。
川沿いの道を車で通りかかった柴田澪という女性に拾われ、彼女の案内で木工の伝統工芸士を訪ねると、彼はいきなりオーダーメイドのスピーカー・ボックスを発注する。
素材に高級品の桐を指定し、漆塗りのオプションまで追加する上客ぶりに2人は呆気に取られるが、やがて男は空き家だった古民家を借りて腰を落ち着けると、大学院で伝統工芸を研究し、木工の老匠に傾倒する澪にある提案を持ちかける。
瀕死状態の伝統工芸に救いの手を差し伸べようというその内容は、彼女にとって夢のようなものだったが、あまりの途方のなさに戸惑い、困惑する。
正体不明の怪しさはあるが、金に不自由なく気前もいい。さらには時代の最先端を行く情報工学にも通じた黒木は、世間でいうちょっといい男だ。かたや伝統工芸の世界に入れ込んだ澪は、快活で見映えも悪くない妙齢の女子である。馴れ初めこそ偶然だったが、実はある意味においてそれは運命の出会いでもあった。
「マネーの魔術師 ハッカー黒木の告白」榎本憲男 著 中公文庫
ついつい恋愛に擬えたくなる2人の出会いだが、彼らの間に起きた化学反応は、よくある男女のそれとはいささか異なる。2人を引き合わせた縁はマネー、すなわち金なのである。
ピンク・フロイドに、ずばり「マネー」というマンモニズムを皮肉った曲があったが、同曲がアメリカのヒットチャートを駆け昇ったのは1970年代前半のことだ。
そこで揶揄された拝金社会は、ミレニアムを挟み、金融経済の発展という形で肥大化してきた。その結果、世界経済は農業や製造業といった産業中心から、金融市場での売り買いの世界へと移行していくが、そこで置き忘れられたように後退してしまったのが、丹精を込めたものづくりの文化、すなわち澪の研究テーマでもある伝統工芸の世界だったのである。