実は黒木が惚れ込んだのは、澪の伝統工芸品の価値を見抜く眼力だった。弱冠十代で単身渡米した黒木は、ヒューストンのIT企業の招聘を受け金融情報システムを構築し、大金を手にするが、欲深い資本家とウォール街に加担した自分に忸怩たる思いを抱いている。
久方ぶりに母国に舞い戻った理由は、そんな金融資本主義に抗うヒントが浮かんだからで、それを具体案として孵化させるために訪れた南紀州で澪と出会ったのだった。
作者が見晴らしよく解き明かす
優れたものを見分ける見識の高さに加え、桐の箪笥や鉄瓶といった伝統工芸品は芸術であり、それを使う者を祝福することで幸せにすると語る澪の熱意ある姿勢にも意気を感じ、夜を徹して自身の秘策を彼女に説くのが作品中の「長い長い夜」と題された章で、この小説の肝と言うべき部分でもある。
この100ページ近い章は、学究として行き詰まっていた女性の背中を押し、大胆ともいえる行動へと駆り立てるが、われわれ読者に対しても21世紀の経済の現況を、平明かつ有無を言わせぬ説得力で語りかける。「マネーの魔術師」というネーミングもむべなるかなの黒木の独壇場ともいえる。
とりわけリーマン・ショックを例にあげ、詳らかにされていく金融資本主義の脆弱性については、経済音痴の私にもすんなりと呑み込むことができた。グローバル化の進捗や新自由主義の蔓延でブラックボックスとなってしまったこの分野を、見晴らしよく解き明かしてみせる作者のロジカルかつ小気味のいいレクチャーの才には、舌を巻くほかない。
「マネーの魔術師 ハッカー黒木の告白」の著者、榎本憲男
作者の榎本憲男は、警視庁捜査一課の万年ヒラ刑事が主人公の警察小説「巡査長 真行寺弘道」(中公文庫)と、キャリア官僚が活躍するポリティカル・フィクション「DASPA 吉良大介」(小学館文庫)の両シリーズを並行して執筆し、登場人物たちを相互に行き来させる芸当で読者を楽しませてきた(黒木はどちらのシリーズにも登場する)。
本作の少し変わった語り手の趣向も、そんな作者ならではのものかもしれない。全知の語り手(神の視点ともいう)に替わり、登場人物の1人がその役を負っているのだが、読者には「この語り手は一体誰なんだろう?」という怪訝な思いを抱かせる。
ネタばらしは避けねばならないが、100ページを少し過ぎたあたりで大まかなところは明らかにされるものの、語り手の名前は物語の後半まで伏せられている。しかしそれがついに明かされると、同時に物語の途中で一人称そのものが突然変わるという大胆不敵さなのだ。
このユニークなナラティブ(語り)が単なるお遊びに終わっていないことは、スピーディかつサスペンスフルな展開への寄与からも明らかだが、本作が作者の過去作品とファミリーの関係にあることを読者にすんなりと受け入れさせる効果も生んでいる。