緊急事態宣言が解除されて3週間が経過した2021年10月22日。開店前の日本橋高島屋S.C.を訪れると、社長の村田善郎は慎重に言葉を選びながら現状を明かしてくれた。
コロナとの闘いに明け暮れた1年半だった。20年4月に緊急事態宣言が発令され、買い物客や従業員がいない店頭は静寂に包まれた。しかし、裏側は戦場と化していた。
「まずは感染防止。当初はサーモグラフィが品薄な中、入店されるお客様にどのように注意喚起すべきか、接客をどう工夫すればお客様や従業員を守れるのか。状況把握のため、幹部は毎日出社して1日2回会議していた」
防疫体制が整い始める一方で、危機感を覚えた。「これが2年続くと会社がつぶれる」。経営上の問題だけではない。
大型店舗になると、取引先スタッフも含めて約5000人が働く。営業できなければ、これらのスタッフの雇用が守れなくなる。
コロナとの闘いの後半戦、村田は店を極力開く方向へとかじを切った。21年GW後、緊急事態宣言の延長が決まり、生活必需品以外の営業自粛要請が続いた。
しかし、高島屋は「生活必需品かどうかはお客様の価値観で決まる」として、宝飾品など一部を除いて営業を再開した。
それに対して都は、高級ブランド品は生活必需品に当たらないと表明。都に従った百貨店もあったが、高島屋は営業を続けた。
「どうしてもやらないといけないイベントのため美容院で髪を結ったり、ブライダルの記念品を選ぶのは、ご本人にとって不要不急ではなく必要火急。そうしたお客様の思いに百貨店は応えるべきです」
摩擦が生じることをおそれなかったのは、百貨店は社会インフラだという自負があったからだろう。
村田はもともと海外志向が強く、若手時代は事業をつくることに関心があった。しかし管理職になり、百貨店が消費者の暮らしを支える存在であることを意識するようになる。
その認識が決定的になったのは、2011年の東日本大震災だ。当時は労組の委員長。地震発生後、社長の鈴木弘治(現会長)から「帰宅困難者のために店を開ける。従業員に働いてもらうが、よろしいかと一報が入る。
村田はすぐ了承して、自分も現場に入った。
「高島屋は開いているぞとSNSで拡散して、帰宅困難になった方がたくさんいらっしゃいました。みなさんに乾パンと水を配って、年配のお客様にはリビングフロアで休んでいただいた。朝にお見送りしたら、お客様に『お世話になりました』と頭を下げられましてね。これが百貨店の役目なんだと」
百貨店は消費者の生活を守るインフラでありたい。その思いがコロナ禍後半の方針転換につながったのだ。